
五代友厚は、嘉永6年(1853年)、父秀堯の死にあい、その翌年の安政元年から藩に出仕し郡方書役となった。数えで二十歳であった。父が没して約1ヶ月後にマシュー・ペリー(Matthew Perry)率いる黒船が浦賀に来航しており、開国鎖国の議論で国中騒然としていた時のことである。黒船来航は、五代にとって「志を立つるは、将に此時にあり」と言わしめるほどの出来事であった。兄徳夫はかつて藩の御蔵係で、五代の出仕に際しその職を譲ろうとしたが、五代は趨勢に見るところありこれを断る。五代は熱心な開国論者、兄徳夫は鎖国的で、始終意見は相容れなかったという。
五代が任ぜられた郡方書役の郡方とは、年貢、夫役、検断、訴訟、道橋の補修など農村諸政を担当する部署で、書役は文書管理の実務を担当する役割である。当時の藩主島津斉彬は反射炉の建設や造船、鋳砲、砲台の建設などを推し進めたことが広く知られているが、農業改革も積極的に行っていて、稲・蕎麦・粟・芋の新品種導入や、灌漑施設の整備、農機具の改良、また外国産の薬用植物や香料の栽培も試みている。郡方の仕事もこうした改革と無関係ではなかっただろう。
五代が出仕しておおよそ2年が経った頃、安政2年(1855年)末に幕府は長崎に海軍伝習所を設立する。薩摩藩はまず沖直次郎と木脇賀左衛門を砲術調練のため派遣したが、両人のみで多端の科目を修得するのは困難であるとして、さらに数人を長崎に遊学させることとなった。五代は選ばれて航海・測量を専攻するため伝習所に入る。長崎海軍伝習所では、薩摩藩から川村純義や本田彦次郎、川南清兵衛、幕府から勝海舟、榎本武揚、佐賀藩から中牟田倉之助、また医学生として松本良順らが学んでおり、五代はここで知己となった人々とその後幕末明治のさまざまな場面で再び交わることになる。
In 1853, Commodore Matthew Perry’s black-hulled paddle-wheeled ship which was sent by the United States, arrived off the shore of Uraga, Japan. A year later, Godai Tomoatsu started serving the Satsuma Domain at the age of eighteen.
<参考文献>
尚古集成館『ー図録 薩摩モノづくりー 島津斉彬の集成館事業』2003年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年