五代友厚 造士館(2)
Godai Tomoatsu, Zoshikan School (2)

造士館・演武館の絵図
造士館・演武館の絵図 Plan of Zoshikan and Enbukan Schools

五代友厚は、幼き頃より鋭敏で果断に富み、儕輩を抜いていたという。児童院の学塾から帰ったあとは外出せず、自宅で軍談の稗史を読むことを好んだ。五代の語りがよほどうまかったのだろう。同輩数人が毎日やって来ては五代の軍談を聴きたがったという。五代は才気あふれる弁舌家として知られるが、このときすでにその片鱗がうかがえる。

造士館では、剣術の練習に使う竹刀を、生徒が毎年春先に竹を刈り砂で磨いて準備した。皆磨き易いものを取ろうと日々争論紛雑止む時がなく、五代はこれを見て、竹の長短細太を選別し、年齢に応じて数を配分して、自らは扱いにくいものを率先して磨いた。五代の統率力を見て取った教師は、生徒間で争論がある度、五代を呼び出し仲裁を任せる。五代は正論雄弁をもって調停したというが、そのやり方は薩人の士風とは少々異なるものであったかもしれない。

また、このような話もある。ある日、御目付島津某の家士が、下校途中に五代を嘲罵したため、五代は憤然としてこの某の襟を掴み、これを投げ飛ばす。結果、一時出校差し控えを命じられることとなったらしい。常は温厚で忍耐強い性格であったが、時に臨んでは勇ましく毅然たる態度もとった。

五代が嘉永7年(1854年)ごろまで通った造士館は、明治2年(1869年)に学館と改称され、明治4年の廃藩置県で事実上廃止となった。しかし、造士館の名は、明治17年に鹿児島県立中学造士館として復活し、最後は第七高等学校造士館へと引き継がれていく。校舎には、異人館と呼ばれた鹿児島紡績所技師館の建物が、中学造士館創設時に磯浜から移築され、長く使用されていた。

Some episodes tell that Godai Tomoatsu has been smart and sharp, and also a talented speaker and good moderator since he was a child.

<参考文献>
石川松太郎他編纂『人づくり風土記 江戸時代 46 鹿児島』1999年
奈良本辰也編『日本の藩校』1970年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年

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