五代友厚 造士館(1)
Godai Tomoatsu, Zoshikan School (1)

造士館
造士館(三国名勝図会) Zoshikan School (Sangoku Meishozue)

五代友厚は、8歳から児童院に、12歳から聖堂、つまり造士館に通ったという。造士館は八代藩主島津重豪(しげひで)の代、安永2年(1773年)につくられた薩摩の藩校で、演武館を併設して文武両道の教育を目指した。生徒は城下士の子弟が中心だったが、地方士族や商人の子弟にも聴講を許し、運営資金は藩費でまかない学費は徴収しなかった。重豪は同じ頃、医学生の養成や薬草の研究を行う医学院、天文学や暦学を研究する明時館も創設している。

造士館は鶴丸城の二の丸御門の前の広い敷地につくられた。現在中央公園となっている場所で、照国通りに面した南側に聖堂、講堂、文庫、学寮などからなる造士館、北側に剣術稽古所、槍術稽古所、射手屋、馬乗場、犬追物稽古場などを備えた演武館があった。造士館では朱子学を教え、講読に四書・五経などを用いた。演武館には各武道流派の師範がやってきて厳しく指導にあたったという。五代友厚の銅像に示現流の構えをしたものがあるが、示現流は東郷家が継承する薩摩藩独自の剣術で、立木打という激しい稽古を特徴とする。

造士館は、近思録崩れや緊縮財政の影響で一時停滞するも、十一代藩主斉彬(なりあきら)が行った学風改革により再び隆盛をみる。五代は父秀堯の死後、安政元年(1854年)から藩に出仕するようになったから、斉彬が改革に乗り出したときにはすでに造士館を出ていた。斉彬は、国学館と洋学館の創設も計画していたようだ。ともに実現しなかったが、洋学館のことは石河確太郎(正龍)に内命し調査などさせていた。石河は蘭学に通じ、五代らの英国留学に備え、紡績機械の購入指示や派遣留学生の選抜に協力した人物で、明治に入ると五代とともに堺紡績所の建設にもたずさわった。

Godai Tomoatsu entered Zoshikan School of Satsuma Domain when he was 8 years old.   Satsuma Domain encouraged its Samurais to cultivate both the literary and military arts.

<参考文献>
石川松太郎他編纂『人づくり風土記 江戸時代 46 鹿児島』1999年
鹿児島県『鹿児島県史 第三巻』1941年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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