五代友厚 親兄弟(2)
Godai Tomoatsu, Parents and Siblings (2)

新訂万国全図
新訂萬國全圖 高橋景保作 1816年(国立国会図書館デジタルコレクション) World Map by Takahashi Kageyasu, 1816

五代友厚の兄徳夫(競太、友健とも)は、父秀堯と同じ漢学者で、武骨一徹、鎖国派で、開明的な友厚とはあまり反りが合わなかったらしい。直接やり取りした手紙も見当たらない。城ケ谷の邸が西南戦争の兵火で焼け、友厚が新宅を贈ろうとしたが徳夫が断ったという話もある。

元薩摩藩士折田年秀の日記には、五代友厚と徳夫双方の名前が出てくる。折田は薩英戦争の砲台築造や鹿児島紡績所の技師館建設にたずさわり、明治6年(1873年)から兵庫の湊川神社の宮司となった。漢詩も書いた。友厚については、明治18年に大阪で執り行われた友厚の葬儀に駆けつけたこと、徳夫については、明治26年に「梅花廿詠」の原稿を依頼したことなどが書かれている。「御長屋にて五代徳夫に面会し、関ヶ原前後の談をなして帰る」ともあるから、この頃徳夫は長屋に住んでいたのかもしれない。

姉の広子は篠原伊平治に嫁した。西南戦争の折、篠原家も罹災したようで、友厚は家屋造営を申し出ている。

友厚は、妹信子とその夫である祁答院重之に連絡を取ることが最も頻繁で、兄姉への贈物を祁答院家を通じて送ることもあった。祁答院重之は明治3年に漢学掛授読を拝命したが、その後、友厚のもとで鹿児島の羽島金山や鹿籠金山の運営に関わっている。重之と信子の息子、友厚の甥である祁答院重義は、20歳まで大阪の弘成館にいた後、鹿児島に生陽館を設立して長崎の波佐見金山を所有するなどした。

五代友厚の娘婿、五代龍作は鹿児島の山ケ野金山在勤中に、不断光院の五代家の墓碑をたずね拝したという。不断光院はもともと城ケ谷近くにあったが、薩英戦争で焼け廃仏毀釈で一時廃院になるなどして、現在は鹿児島市易居町にある。五代家の墓は、その後不断光院より坂元墓地に改葬された。

<参考文献>
大阪朝日新聞『波佐見金山真相(上・中・下)』1913年7月18日〜21日
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
折田年秀『折田年秀日記 第三』2007年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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