五代友厚 城ケ谷(2)
Godai Tomoatsu, Jougatani (2)

城ケ谷五代邸
城ケ谷五代邸(旧薩藩御城下絵図) Godai’s Residence in Jougatani

五代友厚が生まれ育った城ケ谷は、鶴丸城の北側、岩崎谷よりさらに奥の谷筋にある。明治時代に入り付近は長田町となった。鹿児島城下には方限(ほうぎり)という区割りがあり、各方限には郷中という教育組織があった。方限は30ほどに分かれ、城を中心に以東を上方限、以西を下方限と大別し、城ケ谷や冷水、清水馬場などは上方限にあった。下方限は加治屋町はじめ、新屋敷、西田、八幡荒田などである。

後に初代文部大臣となった森有礼は、春日神社近くで生まれ、城ケ谷の五代の邸のすぐ近くで育った。森は慶応元年(1865年)に薩摩藩留学生として五代らとともに渡英し、五代死後の事業整理にも関わった。五代より11歳年少であったが、二人は手紙のやり取りも多く、ときに忌憚なき意見を交わしている。こうした結びつきは同じ方限にあったことと無関係ではなかろう。

また、五代と黒田清隆が同じ方限で、これが北海道開拓使官有物払下げにおける癒着を生んだ所以という説もあるが、黒田清隆の生誕地は新屋敷である。新屋敷は西郷隆盛や大久保利通が住んでいた加治屋町の東隣りで、城ケ谷とはずいぶん離れている。五代と黒田が同じ郷中方限であった可能性はほとんどないだろう。

城ケ谷の西は夏蔭城である。夏蔭の名は、楠の大木が茂る暑さ知らずの高凉地であったことに由来する。城や砦はなくとも城山攻防の要所であったので、いつしか夏蔭城と呼ばれるようになった。明治10年(1877年)の西南戦争で西郷軍が砦としていた夏蔭城は激しい攻撃にあい、友厚の兄徳夫が住んでいた城ケ谷の邸も兵火に焼かれたという。

<参考文献>
鹿児島縣『鹿児島縣史 第二巻』1940年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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