
一行は文久2年7月1日(1862年7月27日)までに千歳丸への乗船を終え、船長以下新たに雇い入れた10名のオランダ人とともに出帆を待った。運上所の手続き等に手間取り、7月5日にようやく抜錨した際には、宿泊していた宏記館の屋上に数十人が集まり、手を振って見送ってくれたという。7日から8日にかけて波が強く皆船酔いし、血を吐く者までいた。9日からは一転弱風で船が進まず、昼は囲碁、腕相撲、角力、夜は軍談や烏賊釣りで憂さを晴らす。13日には伊王崎に達していたが、風向きが悪く14日の日没頃になってようやく長崎港に着船した。
日比野輝寛は、日本に戻って清潔で冷たい水で顔を洗ったとき「水に対し嘆息す」と言っている。上海の濁水でつらい思いをしたためだ。日本はちょうど盂蘭盆で、長崎の人々が酒肴をたずさえ墓前に火を灯す様は「燈火また山を焼くごとし」、藁と紙でつくった幾千万の船に提灯をつけて海上へ流し、銅鼓や人声が明け方まで止まなかったという。
上海滞在中、五代友厚としきりに蒸気船の話をしていた高杉晋作は、帰国して4年が経った慶応2年4月、長崎で英商トーマス・グラバー(Thomas Glover)から丙寅丸(へいいんまる)を購入した。五代はこの年の2月に欧州視察から戻って長崎に在勤していたから、来崎中の高杉と交流があったことは間違いないだろう。高杉の遺品には、欧州で撮影したとみられる五代の写真がある。慶応2年5月26日(1866年7月8日)付五代から高杉宛て書簡には、桜島丸の引き渡しや小銃調達のことが書かれている。また、五代は高杉から反物を贈られたようで、これに対し五代は「これまでの周旋は、お互いに国家の危急を救うための交わりであり、このような謝礼等に預かるのは実は心外である」と書き添えている。
The Senzai-maru ship set sail from Shanghai on 27th July 1962 and arrived in Japan after a 10-day voyage. About 4 years later, Godai Tomoatsu associated with Takasugi Kenshin who had tavelled to Shanghai together, again in Nagasaki.
<参考文献>
小島晋治監修『中国見聞録集成 第一巻』1997年
小島晋治監修『中国見聞録集成 第十一巻』1997年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』 1974年