
帰国の日が決まると、千歳丸の各人は日本へ持ち帰る土産や書籍を買ったり、現地で知己になった人々に挨拶に行くなど忙しい毎日を過ごした。この間の五代友厚の動向は定かではないが、長崎商人松田屋判吉の日記には、6月24日(1862年7月20日)に「中山公森寅五代鐡利此方遊所芝居見る」とあり、五代が長崎会所の役人や商人と行動をともにしていたことがわかる。
当初、日本側は中国の他の開港地、つまり広東、厦門、福州、寧波にも立ち寄りたいと考えていたようだ。しかし、条約なき故、上海一港での商品の販売は許すが、中国の品は購入せず、売上金を持ってすみやかに帰国するよう中国側から告げられていたため、千歳丸が他の都市へ寄港することは叶わなかった。
実のところ、太平天国の乱による騒擾などで千歳丸が持ち込んだ商品は半分も売れず、難民の流入で人口が急激に増加した上海は衛生状態も悪く、千歳丸からコレラによる死者が3人も出た状況では、早々に帰国するのが賢明との判断もあっただろう。また、日本の時局も激しく動いていた。
幕府は千歳丸を貿易船として上海に派遣したが、商売のみが目的だったわけではない。5月の終り頃、幕吏は在上海オランダ副領事のクルース(Theodorus Kroes)に上海港の入港手続き、港湾警備、出入国税、輸出入禁制品、燈台や澪標のことなどを事細かに質問している。幕府は迫りくる日本各地の開港を前にかなり周到に準備を進めており、開港して20年の上海は、貿易港の運営や欧米列強とのつきあい方を知る上で、この上ない視察先だったのである。
Tokugawa Shogunate sent the Senzai-maru ship to Shanghai in order to observe Chinese open ports. This observation helped Japan prepare its own open port.
<参考文献>
小島晋治監修『中国見聞録集成 第一巻』1997年
小島晋治監修『中国見聞録集成 第十一巻』1997年