
文久2年(1862年)に千歳丸で上海に渡航した納富介次郎は、ともに乗船した五代友厚について、その『上海雑記』で次のように語っている。
最も意外だったのは、薩州の五代才助である。当初より水夫に身をやつしてずっと船底にいたので人々が気に留めずにいたところ、合間を見つけて遠出し、浦東あたりで長毛賊攻めの合戦さえ見て帰ったという。このことは誰も知る者がなく、長崎に帰り着いて知るところとなった。
五代友厚は表向き水夫と称していたわけでなく、実際に水夫としての職務を果たし船底に寝泊まりしていたようである。五代は薩摩藩の城下士でこのときすでに藩の船奉行副役であったから、こうまでして上海に来たのは、世界の状況を自分の目で確かめ、日本の進むべき方向を見極めたいという気持ちがよほど強かったのだろう。職務のかたわら時間を見つけて見聞を広め、情報を収集し、ときに貿易や蒸気船購入の可能性も探っていた。
五代が見た長毛賊との合戦というのはいわゆる太平天国の乱のことで、戦いがあった浦東は黄浦江の東岸から長江に至る一帯をいう。一行が滞在していた租界や上海県城は黄浦江の西岸にあったから、五代はわざわざ黄浦江を渡って対岸の浦東を訪れていたのである。浦東は今でこそ金融貿易区として黄浦江沿いに高層ビルがひしめいているが、もとは農村を中心としたのどかな水郷地帯だった。
浦東は、この上海派遣でコレラの犠牲になった乗員3名の埋葬の地でもあった。オランダ領事の仲介で黄浦江に近い爛泥渡に墓所が用意され、中国船で棺を運び、卒塔婆も立てて野辺送りをしたという。
During his stay in Shanghai, Godai Tomoatsu visited Pudong and saw the battle of the Taiping Rebellion.
<参考文献>
小島晋治監修『中国見聞録集成 第一巻』1997年
小島晋治監修『中国見聞録集成 第十一巻』1997年