五代友厚 上海南市(1)
Godai Tomoatsu, Shanghai Nanshi (1)

上海城壁と堀
上海城壁と堀 Shanghai Wall and Moat (Virtual Shanghai)

文久2年(1862年)、千歳丸で上海に来た大村藩の峯源蔵は、当時の上海についてこう書いている。

清国十八省のうち、落ち着いているのはわずか五省で、残り十三省はほどんと清国の所領にあらず。上海は四方から難民が集まるため、米価が日々沸騰し、その他の品も高値のため、下賤の者は米あるいは牛豚等の肉を食べることができない。この形勢では近日餓死する者も多いだろう。

この頃の中国は、小刀会や太平天国(長毛賊)、清国、それに英仏軍が入り乱れての戦火が絶えず、上海には多くの難民が流れ込んでいた。峯が中国人に難民の数を尋ねたところ、10万人余りとの答えが返ってきている。黄浦江には隙間なく小舟が浮かび住居となっていたという。滞在中、千歳丸のメンバーは間近で砲声を聞いたり、多くの英仏軍人を見ている。また、戦況を新聞で確かめ、調練を見学した者もいた。

峯はこのような状況に接し、それぞれの国家の立場を冷静に分析する。英仏等が清国を助けるのは、利を計較しているのであって真の仁心ではないと嘆息し、米穀は人命に関することなので、日本のような山間の国で海路もなく陸運も不便なところもある国は、必然非常時の蓄えを持たねばならぬと説く。また、清国の人は、仮に難事があっても往々にして天命に付し問うことをせぬ故、禍が止まらないと考える。さらに、争乱で古器宝物が散逸することも惜しんでいる。

上海到着後10日ほど経った5月17日、名倉予何人は上海城内の文廟を訪れ参拝を試みた。しかし、そこは英軍の駐屯地となり、聖像は南門近くの也是園に移されていた。名倉はその経緯を中国人との筆談で聞き出している。文廟は孔子を祭るだけでなく、県の最高学府でもあったから、その場所を外国軍が占有しているのは異常事態であった。帰路、名倉はイギリス人に酒を誘われたりもしている。

この日、五代友厚は中牟田倉之助、高杉晋作とともにイギリス人所有の蒸気船を見に行った。

When the Senzai-maru arrived in Shanghai in 1862, a vast region in the southern part of China was involved in the Taiping Rebellion.  A lot of refugees poured in Shanghai and the western troops was staying in both the foreign settlement and the walled city of Shanghai.

<参考文献>
小島晋治監修『中国見聞録集成 第一巻』1997年
小島晋治監修『中国見聞録集成 第十一巻』1997年

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