
東シナ海沿岸、長江河口に位置する上海は、8世紀に華亭県となり、13世紀に上海県となって県署が置かれるようになる。その後、海運と長江水運の結節点として急速に発展し、中国随一の文化的経済的繁栄を謳歌するが、一方で倭寇の来襲が相次ぎ、防御のため16世紀に入り城壁を築くに至った。高さ8メートル近くもあった城壁は、辛亥革命後の1912年から13年にかけてほとんどが取り壊され、水路や堀は壁を壊した瓦礫で埋め立てられ道路になった。外灘の南側に中華路と人民路に囲まれ楕円の形をした地域があるが、これが城壁で囲まれていた県城の場所である。
五代友厚らが千歳丸で上海を訪れたときはまだ城壁も掘もあり、城壁には出入りのための城門があった。納富介次郎の『上海雑記』によれば、「門は大小で7つあり、東2つ、西1つ、南2つ、北2つ、本来北門は1つであったが、フランス人が新たに1門築いた」とある。千歳丸一行が宿泊していた仏租界の宏記館から最も近いのがこの新北門である。新北門は仏租界からの利便を考えたフランス人が造ったものであろう。
峯源蔵の文久2年5月11日(1862年6月8日)の日記には、南門より城内に入り西門から出たときの出来事が書いてあり、五代も登場する。
城内にあるフランス兵の宿営地前を通りかかると、今日は日曜日で休日なので皆酒を飲んでいるようだ。フランス兵が袖を引っ張って中に来いというので、五代(友厚)を呼んで一緒に入り、一杯呑みながらしばらく雑談した。フランス人が日本刀を見たいというので見せたところ、大勢が寄って来て賞賛している様子。さらに酒を勧められたが不用と言って別れを告げた。
この日は、峯の上司である尾本公同、長崎会所の松田兵太郎もつかず離れずといった距離で一緒に行動していたようだ。
<参考文献>
上海市政協文史資料委員会編『開放中前行ー上海開埠170周年歴史程』2013年
小島晋治監修『中国見聞録集成 第一巻』1997年
小島晋治監修『中国見聞録集成 第十一巻』1997年