
五代友厚らが乗った千歳丸は、1862年6月3日(文久2年5月6日)に上海に到着した。6月7日のノース・チャイナ・ヘラルド(The North-China Herald)紙は、日本船の到着を次のような驚きをもって報じている。
これまで外国に門戸を閉ざしていた日本が、幕府買い上げの船に自国の産物を山のように積んでやって来た。英領事メドハースト(Medhurst)が挨拶に訪れた際には日本人から質問攻めにあい、関税収入や租界の土地価格、果ては土地購入の可能性まで聞かれたため、彼は日本が商用で来たのか政治目的のため来たのか一応確認したという。答えはもちろん商用のみとのこと。元イギリス商船の千歳丸は、最良の材料を使い、積載量も多く、日本はよい買い物をしたといえる。幕府は船長のリチャードソン(Henry Richardson)と1年ほど前から交渉を重ねていたようだ。
ノース・チャイナ・ヘラルドは現地英系新聞社「字林洋行」の発行で、英語のできる中牟田倉之助などは滞在中何度かこの新聞社を訪問したようだ。
また、日本側は英領事に関税や租界のことを質問しているが、当時のイギリスは上海の江海関、つまり税関をも支配しており、日比野輝寛は江海関を訪れたときのことをこう振り返っている。
新関は上海港の運上所にあたり、すこぶる広大である。清の役人とイギリス人が雑居し、人数を問うと英人42人、清の役人99人、あわせて141人。清国政府より高官が1名来て管理し、英人も司長なる者が頭として管理する。その司長の給料は年に洋銀8千、我国の4千両余り。何故英人が税関を司るのか。
日比野は江海関を新関と呼んでいる。これは元来もっと南にあった海関をイギリス側の要求で租界内にも置くことになり、租界内の海関を江海北関もしくは新関と呼んだためである。
Godai Tomoatsu and the other Japanese members of Senzai-maru arrived at the port of Shanghai on 3rd June 1862. When Mr. Medhurst, the British Consul visited the ship as a matter of courtesy, he received numerous enquiries concerning customs duties and the foreign settlement in Shanghai from the Japanese.
<参考文献>
小島晋治監修『中国見聞録集成 第一巻』1997年
中村孝也『中牟田倉之助伝』1995年
The North-China Herald, Shanghai, 7th June 1862