五代友厚 上海租界(1)
Godai Tomoatsu, The Bund in Shanghai (1)

1857年頃の外灘
1857年頃の外灘 The Bund, circa 1857 (The Virtual Shanghai)

五代友厚らの乗った千歳丸が上海を訪れた1862年当時、上海には英米仏の各租界が形成されており、上海県城から北の洋涇浜までがフランス租界、洋涇浜から北の呉淞江(蘇州河)までがイギリス租界、呉淞江から北の虹口がアメリカ租界という具合であった。洋涇浜は水路だったが1915年に埋め立てられ、現在は延安東路という道路になっている。

アヘン戦争に勝利したイギリスは、1854年に呉淞江と黄浦江の合流地に広大な領事館を建設した。英米租界の往来を容易にするため、それまで渡船しかなかった呉淞江には木橋が架けられた。千歳丸の日本人たちが大橋と呼んでいたこの橋は、1907年に中国最初の鉄橋となり外白渡橋(Garden Bridge)と名付けられた。英領事館前には公園(Public Garden)も造られたが、完成は1868年だから千歳丸が上海を訪れたときにはまだ存在していなかった。

欧米人は娯楽として競馬場もつくった。現在人民広場と人民公園となっている場所で、その形が競馬場の名残を留めている。しかし、千歳丸で来た日本人の関心はここにはなかったようである。黄浦江から競馬場に至る東西の街路を馬路といって、北から南へ順に大馬路(南京路)、二馬路(九江路)、三馬路(漢口路)、四馬路(福州路)、五馬路(広東路)と呼んだ。

黄浦江沿いは外国商社や銀行が軒を連ね、中でも怡和洋行、つまりジャーディン・マセソン(Jardine, Matheson & Co.)や仁記洋行(Gibb, Livingston & Co)は、他に先んじて1840年代前半に上海支店を設けている。長崎の英商トーマス・グラバー(Thomas Glover)から上海のジャーディン・マセソン社宛て1861年1月の手紙には、薩摩藩が蒸気船イングランド号を12万8000ドルで購入した旨記されているという。

When the Senzai-maru arrived in Shanghai in 1862, Britain, France and America had already formed each settlement along the Huangpu River.

<参考文献>
アレキサンダー・マッケイ著 平岡緑訳『トーマス・グラバー伝』1997年
上海市政協文史資料委員会編『開放中前行ー上海開埠170周年歴史程』2013年
上海図書館編『老上海地図』2001年

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