五代友厚 上海到着(1)
Godai Tomoatsu, In Shanghai (1)

千歳丸航路
千歳丸航路(『”千歳丸”上海行』より) Senzai-maru Route

五代友厚と同じ千歳丸(Senzai-maru)で上海(Shanghai)に渡った長崎商人松田屋判吉の『唐国渡海日記』によれば、船は「最早助る心地は無之皆々覚悟いたし・・・」ほどの暴風雨にあったが、文久2年5月5日(1862年6月2日)朝、ようやく揚子江口に到り、昼頃呉淞江(Wusong River)に碇泊した。そして「今晩より舟つなぎに付水夫四人商人小者三人〆七人之内二人宛不寝番相始まる」とある。水夫は五代を含めて4人であったから、士分の五代も仕事を免除されていたわけではなさそうだ。ちなみに松田屋の乗船者一覧では、水夫のみ名前が省略されている。

千歳丸の日本人乗船者は、幕臣とその従者として各藩から推挙された21名、長崎の通詞、商人らとその従僕20名、炊夫6名と水夫4名であった。従者は中牟田倉之助や納富介次郎など佐賀藩士が最も多く、長州藩の高杉晋作などもいた。薩摩藩からは五代友厚とともに忠次郎という男が水夫として乗り込んでいるだけであった。また、松田屋は蘭商としてボーテエン(Albertus Johannes Bauduin)とドンブレンキ(Franciscus Petrus Tombrink)の名を書き留めているが、他の者の記録を見ると蘭商は1人とあり、また上海到着後に名前が上がるのはドンブレンキのみなので、実際に同行したのはドンブレンキだけだろう。

呉淞到着日は端午の節句ということで、松田屋は「今日日本節句に付昼飯は鱠取魚干魚煎〆に而祝致す」と記し、祝膳を囲んだことがわかる。厳しい船旅の後陸に着いた安堵感と初めての外国での取引きを前にした緊張感が入り混じる日だったのだろうか。翌日6日、千歳丸は英船に曳かれて黄浦江を溯上し上海の港に到着した。

Godai Tomoatsu arrived at Wusong, China by Senzai-maru on 2nd June 1862.  As there was no official diplomatic relations between Japan and China, Holland acted as a mediator between them.

<参考文献>
小島晋治監修『中国見聞録集成 第十一巻』1997年
馮天瑜『”千歳丸”上海行』2006年

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