五代友厚 上海渡航(2)
Godai Tomoatsu, Voyage to Shanghai (2)

呉淞と上海
呉淞と上海 Wusong and Shanghai(Narrative of the Earl of Elgin’s mission to China and Japan)

文久2年(1862年)、五代友厚は千歳丸(せんざいまる)で上海に渡ったが、この船はもともとアルミスティス(The Armistice)という1850年代に建造されたイギリス商船で、1860年代に入り貿易のため長崎と上海を行き来していたところを、幕府が3万4,000ドルで買い上げたものである。通詞の岩瀬公圃はこの契約交渉に関わっていたようで、五代は岩瀬と交友があったから、幕府の上海派遣を岩瀬から伝え聞いたのであろう。五代は、3月末に鹿児島を出発して東上途中にあった島津久光を追い、大阪で千歳丸乗船の許しを得たという。

かろうじて出航に間に合ったものの、千歳丸における五代の身分は水夫であった。日本人の乗員は51名で、長州藩の高杉晋作や佐賀藩の中牟田倉之助も含まれていた。外国人も16名おり、うち1名はオランダ人、残りはアルミスティス号の船長であったヘンリー・リチャードソン(Henry Richardson)と英人クルーであった。この派遣の斡旋はオランダに一任され、船はイギリス人が操舵した。

千歳丸は、文久2年4月29日(1862年5月27日)に長崎を出帆したが、高須藩士日比野輝寛によれば、船室は蒸し暑くて寝つけず、猛烈な暴風雨に見舞われて体を鉄板に打ちつけ嘔吐に悩まされ、その後水も不足するなど、非常な難航であったという。一行は5月5日(6月2日)にようやく呉淞(Wusong)に到着した。呉淞は長江と黄浦江の合流するところで、上海の外港として発展した。呉淞江は狭かったので、大型船は満潮時を見計らって呉淞から上海へ遡航した。

Godai Tomoatsu embarked at Nagasaki for Shanghai on 27th May 1862 and arrived at Wusong which was the outport of Shanghai seven days later. The voyage on the Senzaimaru suffered hardships by the heat and storm.

<参考文献>
日比野輝寛『贅肬録』「幕末明治中国見聞録集成 第1巻」1997年
馮天瑜『「千岁丸」上海行』2006年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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