五代友厚 大阪活版所(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Osaka Printing House (Footprints)

五代友厚と本木昌造が関係した大阪の高麗橋と大阪活版所跡の周辺を歩きました。

I walked around Koraibashi Bridge and the Old Site of Osaka Printing House both in which Godai Tomoatsu and Motoki Shozo were involved.

大阪市営地下鉄堺筋線北浜駅の南端の出口から高麗橋1の交差点に出ます。ここにはかつて三越がありました。2005年に閉店しましたが、元禄4年(1691年)に高麗橋に店を構えて以来315年の歴史があったということです。三越の前身は三井家の開いた越後屋という呉服店で、斬新な販売方式を取り入れたいそう成功し、今の三井の基礎を築き上げました。南北に走る堺筋は江戸時代、大阪随一の繁華街で、東西に走る高麗橋筋も多くの店が立ち並ぶ人通りの絶えない通りでした。

高麗橋1
高麗橋1の交差点 Koraibashi-1 Crossroads

高麗橋1の交差点には三井両替店からはじまった三井銀行もありました。今は三井住友銀行になっています。現在の建物は昭和11年(1936年)に建てられたものです。

三井住友銀行大阪中央支店
三井住友銀行大阪中央支店 Osaka-Chuo Branch, Sumitomo Mitsui Banking Corporation

高麗橋1の交差点から高麗橋筋を東に進むと高麗橋に出ます。五代友厚の建言もあって、長崎製鉄所頭取であった本木昌造の協力により、明治3年(1870年)に大阪で最初の鉄橋に架け替えられました。現在の橋は、昭和4年(1929年)に架けられた鉄筋コンクリートのアーチ橋です。欄干の擬宝珠は、鉄橋になる以前の木橋の時代の擬宝珠を模したものだそうです。

高麗橋
高麗橋 Koraibashi Bridge

高麗橋1丁目1

高麗橋の下を流れるのは東横堀川です。

東横堀川

高麗橋は、江戸時代に幕府が直接管理した公儀橋の中でも格式が高く、西詰には幕府の高札が立てられていました。現在の親柱は、西詰にあった櫓屋敷を模したものだそうです。

高麗橋西詰
高麗橋西詰 Korabashi Bridge West Edge

高麗橋橋名板

高麗橋の東詰は、江戸時代から諸方への距離をはかる起点となっていて、当時は東京の日本橋、京都の三条大橋と並ぶ重要な橋でした。しかし、昭和になって御堂筋が拡幅されると人の流れも変わり、現在このあたりにかつての賑やかさはありません。橋や川にも高速道路が覆いかぶさり残念です。

高麗橋と里程元標跡
高麗橋と里程元標跡 Korai Bridge and Kilometer Zero

かうらいはし橋名板

明治9年(1876年)、太政官達第60号により国道、県道、里道が指定された際、東詰に里程元標がたてられました。

里程元標跡
里程元標跡 The Monument of Kilometre Zero
里程元標跡碑の側面
里程元標跡碑の側面 The Monument of Kilometre Zero

高麗橋を渡ってさらに東に進むと松屋町筋に出ます。松屋町筋を南に折れ10分足らずで大手通2の交差点に出るので、そこをまた左(東)に曲がります。坂道を少し上がると大阪活版所跡の碑がありました。

大阪活版所跡碑
大阪活版所跡碑 The Monument of Osaka Printing House

「五代友厚の懇望を受けた本木昌造により、この地に活版所が創設された」とあります。五代友厚は新聞事業に関わり、大阪商法会議所内にも印刷局を設けるなど、印刷とその影響力に並々ならぬ関心を寄せていました。

大阪活版所跡
大阪活版所跡 The Old Site of Osaka Printing House
大阪活版所跡碑の側面
大阪活版所跡碑の側面 The Monument of Osaka Printing House

松屋町筋に戻って南へ歩いてすぐのところに大阪商工会議所があります。歴代会頭の銅像が並んでいます。左端が初代会頭五代友厚の像です。

大阪商工会議所銅像
大阪商工会議所銅像 The Statues at The Osaka Chamber of Commerce and Industry

最初の銅像は明治33年(1900年)に建てられましたが、戦中の金属類回収令によりいったん供出されました。現在の銅像は昭和28年(1953年)に再建されたものです。今はありませんが、当初の銘板の撰ならびに書は薩摩藩の漢学者重野安繹で、五代が『二十一史』の出版について本木昌造に先立ち相談をした人です。

五代友厚像銘板
五代友厚像銘板 Plate on Godai Tomoatsu Statue

銅像の横の奥まったところに若宮商工稲荷神社があります。五代友厚が奉祀した商工稲荷神社と、この地にあった若宮稲荷神社が合祀され建立されたということです。

若宮商工稲荷神社
若宮商工稲荷神社 Wakamiya Shoko Inari Shrine

地下鉄谷町線に乗ってさらに南へ下り、四天王寺に来ました。四天王寺には本木昌造の記念碑があります。

四天王寺前

四天王寺の石ノ鳥居です。『日本書紀』の伝えるところよると593年に聖徳太子が建立した寺ということで、現在も広大な敷地を有しており、ひとつひとつの建物もたいへん立派です。

石ノ鳥居
四天王寺石ノ鳥居 Torii Stone Gate, Shiten’noji Temple

仁王門の仁王さま。

四天王寺仁王門 赤
四天王寺仁王門 Niomon Gate, Shiten’noji Temple
四天王寺仁王門 青
四天王寺仁王門 Niomon Gate, Shiten’noji Temple

2022年の「聖徳太子千四百年御聖忌」に向け、四天王寺の中心伽藍は大規模な改修工事を行っています。

四天王寺中央伽藍
四天王寺中央伽藍 Shiten’noji Temple

五重塔と金堂の改修はすでに完了し再び公開されています。改修されたばかりなのでピカピカです。四天王寺の古い建物は度重なる天災や戦災のためほとんど失われていますが、非常な努力で復興を重ね、今も飛鳥時代の建築様式を忠実に伝えているということです。

五重塔と金堂
五重塔と金堂

中央伽藍とその北側にある六時堂のあいだに亀の池という池があります。日向ぼっこする亀たちはまるで置物のようですが、生きた亀です。

亀の池
亀の池 Turtles Pond

泳いでいる亀もたくさんいます。たくさんというか、度が過ぎるほどおります。

亀の池の亀
亀の池の亀 Turtles in the Pond

境内の北側は霊園になっています。六時堂の真北にある霊園事務所横の小道に本木昌造先生記念碑参道という案内があるので、ここから霊園に入ります。

本木昌造先生記念碑参道
本木昌造先生記念碑参道 Approach to the Monument of Motoki Shozo

入ってすぐの場所に、本木昌造翁紀念碑がありました。玉垣にはぐるりと活字や印刷関係者の名前や社名が刻まれています。さすが「我が国近代印刷の開祖」と呼ばれる人です。五代友厚が学んだ長崎海軍伝習所で通訳官をつとめ、その後長崎製鉄所で通訳、船長を経験した後、製鉄所の頭取となりました。五代は小菅修船場、鉄橋、活版所とさまざまな場面で本木昌造とつながりがありました。

本木昌造記念碑
本木昌造記念碑 Statue of Motoki Shozo
本木昌造記念碑の碑文
本木昌造記念碑の碑文 Epitaph on the Monument of Motoki Shozo

<住所>
三井住友銀行大阪中央支店:大阪市中央区高麗橋1-8-13
高麗橋:大阪市中央区高麗橋1丁目
大阪活版所跡:大阪市中央区大手通2丁目4
大阪商工会議所、若宮商工稲荷神社:大阪市中央区本町橋2-8
四天王寺、本木昌造翁紀念碑:大阪市天王寺区四天王寺1-11-18

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五代友厚 大阪活版所(2)
Godai Tomoatsu, Osaka Printing House (2)

和訳英辞書
和訳英辞書(薩摩辞書)

大阪初の鉄橋、高麗橋の架橋に協力した本木昌三はもともと長崎の阿蘭陀通詞の出で、海軍伝習所でも通弁官を務めていた。五代は本木とここで知り合ったのであろう。その後、本木は長崎製鉄所の御用掛、製鉄所の汽船の船長となって海上勤務にも従事した後、製鉄所頭取となった。しかし、本木が海軍伝習所時代から生涯を通じて最も情熱を注いだのは活版事業で、明治2年(1868年)に製鉄所付属の活版伝習所を、さらに寄付と私財を投じて長崎の新町に私塾と活版所を開いた。

五代は、稀書『二十一史』の復刻を望んでいた小松帯刀のために、漢学者重野安繹に相談の上、長崎の大村屋を通じて本木に活字を持参し上阪して欲しい旨手紙を書いている。そこで、本木は弟子の酒井正三と小幡正蔵を大阪に送り、五代の出資を得て明治3年に大手通3丁目の長崎屋宗三郎方に大阪活版所を開設した。

それより先、『英和対訳袖珍辞書』の第三版にあたる通称『薩摩辞書』が上海で印刷されていて、五代は小松帯刀に頼まれその売り捌きに尽力している。五代はこの辞書を堀孝之に委ねてさらに増補改訂し大阪活版所で印刷しようとしたが、うまくいかず、結局この版も上海で印刷することになった。

日本の活版業に隆盛の機運が訪れるのは明治6年頃で、本木はそれを見届けるように明治8年に亡くなった。五代は、租界が形成された上海やヨーロッパでの見聞もあってか、書物や新聞など印刷物の持つ力に期待するところが大きく、新聞事業をはじめ、明治11年に設立した大阪商法会議所内にも印刷局を設けるなど、印刷・出版には積極的に関わり続けた。

Godai Tomoatsu funded Motoki Shozo to establish a new printing house in Osaka and the factory opened in 1870 at Otemae street.  While Motoki Shozo was an excellent Dutch interpreter, he devoted his life to developing the typographical printing in Japan.

<参考文献>
重藤威夫『長崎居留地』1968年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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五代友厚 大阪活版所(1)
Godai Tomoatsu, Osaka Printing House (1)

高麗橋
高麗橋(『明治期大阪の写真』大阪市立中央図書館所蔵)

五代友厚は、慶応4年1月23日(1868年2月16日)付で徴士参与職・外国事務局判事として大阪在勤となり、慶応4年9月1日(1868年7月15日)に開港した大阪の川口運上所や外国人居留地の運営を軌道に乗せるべく奔走した。それまでの10年近くを五代は長崎で過ごしたが、横浜、神戸、大阪と開港地が増えるにつれ西洋との唯一の貿易窓口であった長崎もその特権を失い、商機を求めて長崎から大阪や神戸に出てくる者も増えた。五代が長崎時代の人脈で大阪に呼び寄せた人物も多い。

長崎では慶応4年に日本初の鉄橋が架けられた。銕橋(くろがねばし)と呼ばれたこの橋は、当時長崎製鉄所頭取であった本木昌造が指揮し架橋したものである。五代は大阪において、将来の橋はすべて鉄橋に改良すべしと建言し、大阪府知事の後藤象二郎がこれを容れて、洪水で流出した高麗橋を鉄橋に架け替えることが決まった。高麗橋は江戸時代に幕府が管理した公儀橋のひとつで、東詰は里程の起点、西詰には幕府の高札が立つ公儀橋の中でも特に重要な橋であった。

高麗橋の建造は本木昌造に一任され、イギリスから橋材を輸入するため大阪府営繕方は明治元年(1868年)にオルト商会(Alt&Co.)と契約を結ぶ。五代の斡旋によるものという。明治3年(1870年)に竣工した高麗橋もくろがね橋と呼ばれ、大阪初の鉄橋として大いに評判になった。しかし、寸法が間違っていたため突堤を築いて架けたというエピソードも残っていて、余程高くついたのか、明治4年になって英国代理公使がオルト商会の訴えで大阪府に代金の不足分を請求している。

While Godai Tomoatsun started his work in Osaka in 1868, he was involved in building an iron bridge called Korai-bashi, which became the first iron bridge in Osaka.

<参考文献>
重藤威夫『長崎居留地』1968年
宮本又次『五代友厚伝』1980年
大阪市史編纂所『明治前期大阪編年史綱文データベース』
http://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=883

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