五代友厚 伊呂波丸事件(2)
Godai Tomoatsu, Iroha-maru Incident (2)

肥前長嵜圖
肥前長嵜圖 享和2年 Hizen Nagasaki Map, 1802

聖福寺での会談1週間後の慶応3年5月29日(1867年7月1日)、伊呂波丸沈没の賠償金交渉は五代友厚が挨拶人にて引き合いすることになった。五代は長崎海軍伝習所で学び、薩摩藩の船奉行副役として船に精通していたし、土州側は万国公法を持ち出していたから渡欧経験もある五代は仲介役として適任だったと言える。しかし、五代は後藤象次郎や坂本竜馬と少なくない面識があった。紀州側はそれを意に介さなかったのだろうか。

6月2日、紀州側が約8万3500両を支払うことで賠償金問題は決着した。その後、後藤象二郎と坂本龍馬はすぐに長崎を離れ京都へ向かっている。イカルス号事件対応のため後藤と坂本は一時長崎に戻っているが、10月14日の大政奉還を控え再び上京している。一方、五代は8月から9月にかけ、パリ万博から帰国途中の薩摩藩一行とシャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)を迎えに上海へ行っていた。

多額の賠償金を払う羽目になった紀州の本藩はこれを不服とし、この間、談判を妥結した勘定奉行茂田一次郎を罷免し、改めて岩橋轍輔をもって交渉のやり直しを求めた。岩橋轍輔は9月末に長崎に赴いたが、後藤象二郎は在京中だったため海援隊の中島信行を代理人に折衝を任せた。談判には帰国した五代も入り、賠償金は7万両に減額して再び妥結する。

7万両のうち4万両は11月7日に支払われた。中島は報告のため京都に向かっていたが、坂本龍馬が暗殺された11月15日に間に合わず、京都から戻る途中の岩崎弥太郎と兵庫で出会っている。その後、土佐藩は4万2500両を伊呂波丸の所有者である大洲藩へ返還し、海援隊は9000両を受け取り、1000両位を差し引いて五代への謝礼としたようである。

Tosa-han and Sakamoto Ryoma obtained damages of 7 million ryo from Kishu-han for the sunken ship. Godai Tomoatsu served as a mediator between Tosa-han and Kishu-han.

<参考文献>
鈴木邦裕『いろは丸事件と竜馬』2010年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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