五代友厚 長崎とグラバー(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Nagasaki and Glover (Footprints)

五代友厚と関係の深かったトーマス・グラバー(Thomas Glover)の邸宅があった周辺を歩きました。

I visited Glover Garden in Nagasaki, where Godai Tomoatsu probably often came to see Thomas Glover while he was in Nagasaki at the end of the Edo period.

路面電車の石橋駅で降りてグラバースカイロードという斜行エレベーターに乗ります。坂の多い長崎では本当にありがたい存在です。しかも無料です。

グラバースカイロード
グラバースカイロード Glover Sky Road

垂直エレベーターを乗り継いで、一番上まで来るとこの景色。

南山手から長崎港をのぞむ
南山手から長崎港をのぞむ The View of the Nagasaki Port from Minami-Yamate Area

ベンチで猫ものんびり毛づくろい。長崎南山手のねこ

エレベーターを降りた先にグラバー園の第2ゲートがあります。今日はここからは入らず、いったん坂を下りて第1ゲートに向かうことにします。

歩き始めてすぐに南山手乙二十七番館がありました。レストハウスになっていて自由に休憩できます。木柱と石柱を併用したテラスが特徴だそうです。グラバーの弟が一時住んでいたといいます。

南山手乙27番館
南山手乙27番館 Minami-Yamate Otsu 27 House

南山手乙27番館説明版

祈念坂を下ります。海に向かって坂道を下ってゆくのは本当に気持ちのいいものです。祈念坂プレート

祈念坂
祈念坂 The Prayer Slope

坂の途中から、左手に大浦天主堂が見えてきます。初代は1864年に建てられ、今ある建物は1879年に改築されたものだそうです。五代友厚は長崎にいたころ初代の天主堂を見ていたはずです。

大浦天主堂
大浦天主堂 Oura Catholic Church

史跡大浦天主堂

大浦天主堂内にある旧羅典神学校を見学し、そのまま道なりに進むとグラバー園に着きます。

グラバー園の第1ゲートをくぐり最初の動く歩道を降りると、右手に旧自由亭の建物がありました。諏訪神社下から移築されたものだそうです。自由亭は幕末から明治初めにかけて長崎三大西洋料理店のひとつと言われ、たいへん繁盛していました。

自由亭
自由亭 Old Western Restaurant “Jiyutei”

旧自由亭説明版

創業者の草野丈吉は、出島のオランダ人から西洋料理を教わり、五代友厚の薦めで文久3年(1863年)に伊良林にあった自宅を改装して西洋料理店を始めたといいます。後に大阪の川口居留地や中之島にも店を開き成功しました。五代も大阪の自由亭をよく利用していました。

草野丈吉
草野丈吉 Jokichi Kusano, the founder of Jiyutei Restaurant

有名なグラバー邸です。日本に現存する最古の洋風木造建築ということで、外観は瓦屋根の平屋、内部は洋館らしくしつらえてあります。昭和14年(1939)までグラバーの息子、倉場富三郎とその妻ワカが住んでいましたが、三菱に売却され、その後長崎市に寄贈されました。

グラバー邸
グラバー邸 The Glover House

グラバー邸内にかかっていた絵です。ひとつは薩摩公からグラバーに贈られた蘇鉄が運び込まれる様子。グラバーの隣りに描かれている武士は誰なのでしょう。

グラバー邸の蘇鉄
グラバー邸に運び込まれる蘇鉄 Cadophyte Tree Carried into the Garden

もうひとつは五代友厚が計画し、グラバーが出資して造られた小菅修船場です。

小菅修船場を描いた絵
小菅修船場 Kosuge Slip Dock

アイスクリーム製造機がありました。五代友厚も持っていたようです。アイスクリームを振舞った話が残っています。

アイスクリーム製造機
アイスクリーム製造機 Ice Cream Maker

幕末志士をかくまったという隠し部屋。単なる屋根裏部屋だった可能性もあるそうです。

グラバー邸の屋根裏部屋
グラバー邸の屋根裏部屋 An Attic of the Glover House

グラバー一家の写真です。グラバーの娘、息子夫婦のほか、グラバーの妹と弟も写っています。

グラバー一族
グラバー一族 Glover Family

グラバー邸は庭からの眺めが本当にすばらしいです。長崎湾が一望でき、船の出入りがすべてわかります。長崎海軍伝習所の練習船だった観光丸(復元)がちょうど通りかかりました。現代の船と並ぶとかなり小さく感じます。

高台から望む観光丸
高台から望む観光丸 Kankomaru seen from the Hill

トーマス・グラバーの銅像もあります。

トーマス・グラバー像
トーマス・グラバー像 Statue of Thomas Glover

親交のあった島津藩主から贈られたという蘇鉄。たいへんな大木で樹齢300年以上だそうです。

グラバー邸の蘇鉄
グラバー邸の蘇鉄 Cadophyte at the Glover House

グラバー邸の蘇鉄の説明版

次にリンガー邸を見学しました。家主フレデリック・リンガーは、グラバー商会に勤めた後、薩摩紡績所で司長をしていたエドワード・ホームとホーム・リンガー商会を設立しました。五代友厚らの渡欧に同行したライル・ホームの親戚です。

リンガー邸
リンガー邸 Ringer House

オルト邸です。製茶業で成功したウィリアム・オルトとその家族が住んでいましたが、後にリンガー家の所有になったそうです。円柱が並び、ポーチの先の噴水があるなど全体的に華やかな印象の住宅です。

オルト邸
オルト邸 Alt House
オルト邸 Alt House
オルト邸内部 Alt House Inside

グラバー園の坂を上りきったところに旧三菱第2ドックハウスがあります。修理などのため船がドックに停泊しているあいだ、船員たちが宿泊するための施設で、飽の浦から移築されたそうです。

三菱第2ドックハウス
三菱第2ドックハウス Mitsubishi No.2 Dock House

ドックハウス前の池は、亀、鳩、鯉でいっぱい。亀と鳩と鯉

ドックハウスの中では「明治日本の産業革命遺産」関連の展示をしていました。小菅修船場の写真もありました。

小菅修船場の写真
小菅修船場の写真 Photo of Kosuge Slip Dock

グラバー園第2ゲート脇に旧居留地の境界石が集められています。

居留地境
居留地境 Boundary Stone of the Foreign Settlement

グラバー園の外周に沿って坂を下り、海の方へ歩きます。途中、長い長い煉瓦塀のある小路を通りました。

古い煉瓦塀
古い煉瓦塀 Old Brick Wall

土産物屋の並ぶ通りを抜けるとANAクラウンプラザホテルに出ます。ホテルの前に石碑が3つ並んでいます。ここはかつて長崎一と言われたベルビューホテルが建っていた場所です。国際電信発祥の地とあるのは、デンマークの大北電信会社によってウラジオストック~長崎~上海間のケーブルが敷設され、国際電信が開始されたことによるものです。ベルビューホテルの一角に電信局がありました。

南山手居留地跡碑など
南山手居留地跡碑など Three Monuments of Old Foreign Settlement

大浦海岸通りに出ると角に立派な建物が建っています。旧香港上海銀行長崎支店です。銀行ができたのは明治29年(1896年)ですが、この建物は明治37年竣工だそうです。現在は博物館と多目的ホールが入った記念館になっています。

旧香港上海銀行長崎支店
旧香港上海銀行長崎支店 Former Hong Kong and Shanghai Bank Nagasaki Branch

旧香港上海銀行長崎支店看板

大浦海岸通りを街に向かって歩きます。いかにも古そうなこの建物は、明治31年に竣工した旧長崎税関下り松派出所です。現在は長崎市べっ甲工芸館として利用されています。

長崎税関下り松派出所
旧長崎税関下り松派出所(長崎市べっ甲工芸館)Nagasaki Customs Sagarimatsu Office

さらに北へ歩くと旧長崎英国領事館があります。2022年まで保存修理中ということで、工事用のシートに覆われているため海岸通りからは何も見えません。この写真は、山側に一本入ったオランダ通りから見ることのできた領事館の一部です。煉瓦造りの重厚な建物であることがわかります。明治40年の建築だそうです。

旧英国領事館
旧英国領事館 Former British Consulate in Nagasaki

旧長崎英国領事館とその隣りの建物のあいだには「領事館の小径」という路地があり、ウィリアム・オルトとフレデリック・リンガーの説明板がたっています。はじめこの地にオルト商会が設立され、その後、同地にホーム・リンガー商会が移転してきたとのことです。

領事館の小径
領事館の小径 Consulate Street

領事館の小径にある説明板

長崎みなとメディカルセンター前に「我が国鉄道発祥の地」碑がありました。ジャーディン・マセソン商会が上海の博覧会に出品した蒸気機関車アイアン・デューク号をグラバーが引き取り、この海岸通りに約600メートルのレールを敷いて走らせたのです。慶応元年(1865年)のことですから、横浜〜新橋の鉄道開通より7年も前のことです。ここは運上所跡でもあります。

我が国鉄道発祥の地
我が国鉄道発祥の地碑 The Monument of the First Railway in Japan

我が国鉄道発祥の地跡説明板

<住所>
グラバースカイロード: 長崎市相生町/上田町
南山手乙二十七番館(長崎市南山手レストハウス):長崎市南山手町7-5
祈念坂:長崎市南山手町5
大浦天主堂:長崎市南山手町5-3
グラバー園:長崎市南山手町8-1
南山手居留地跡などの碑:長崎市南山手町1-18(ANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒル )
旧香港上海銀行長崎支店記念館:長崎市松が枝町4-27
旧長崎税関下り松派出所(長崎べっ甲工芸館):長崎市松が技町4-33
旧長崎英国領事館:長崎市大浦町1-37
我が国鉄道発祥の地:長崎市新地町6-39(長崎みなとメディカルセンター前)

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五代友厚 長崎とグラバー(2)
Godai Tomoatsu, Nagasaki and Glover (2)

グラバー邸
グラバー邸 Glover House

トーマス・グラバー(Thomas Glover)は、長崎で汽船や帆船の売買、仲介をなし、文久2年(1862年)には汽船購入の藩命を帯びた五代友厚と上海に渡っている。各藩から受注した船の建造を故郷アバディーンの造船会社に依頼し日本で売却もした。

五代は元治2年(1865年)に薩摩藩留学生を率いて渡欧するが、この欧行は計画から実行に至るまでグラバーに負うところが大きい。帰国した五代は小松帯刀と小菅修船場の建設に取りかかり、グラバーはこれに出資してそれなりの利益をあげたようだ。グラバーはこの頃高島炭坑の開発にも乗り出している。

慶応4年(1868年)に神戸、大阪が開港すると、グラバー商会は神戸と大阪の居留地にも支社をおいて商売の手を広げた。大阪の造幣寮創設時に五代らの依頼で造幣機械の輸入も請け負ったが、このときは手数料を上乗せしなかったので儲けはなかったと言っている。

五代の書簡中「太守公御面話、通詞なしニて、ガラバ和語を以御咄為申上由」と書いたものがあるから、グラバーが日本語を話していたことがわかる。また、大北電信会社(Det Store Nordiske Telegraf-Selskab A/S)のフレデリック・コルヴィ(Frederik Kolvig)は、グラバーと大阪の造幣局を訪れた際、グラバーが「非常に好かれていて、みんなからびっくりするほど丁寧な挨拶をされ、丁寧な口の利き方をされていた」ことに驚いている。

グラバーはツルという女性と生涯連れ添ったが、その仲は五代がとりなしたとも言われている。グラバーの息子、倉場富三郎はホーム・リンガー商会(Holme Ringer & Co.)に入社し、後に長崎汽船漁業会社を設立して日本初のトロール漁法を導入した。

Thomas Glover helped Godai Tomoatsu purchase ships and arms, build Japan’s first western-style dry dock and import a coining machine for the mint newly built in Osaka.  He also involved in sending 19 samurais from Satsuma, including Godai, to Europe in 1865.

<参考文献>
重藤威夫『長崎居留地』1968年
長島要一『大北電信の若き通信士―フレデリック・コルヴィの長崎滞在記』2013年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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五代友厚 長崎とグラバー(1)
Godai Tomoatsu, Nagasaki and Glover (1)

グラバー家
グラバー・ファミリー Glover Family

五代友厚の書簡にはカタカナ名がよく登場するが、最も頻繁に現れるのがゴロウル、ガラバ、つまり貿易商として名を馳せたトーマス・グラバー(Thomas Glover)であろう。グラバーは幕末志士の活動にも思いをよせ、薩長土と特に密接な関係を築き、五代はじめ小松帯刀、伊藤博文、井上馨らがグラバーのもとに出入りしていた。

グラバーは、1838年にスコットランドのアバディーンシャー(Aberdeenshire)で8人きょうだいの五男として生まれた。五代友厚とほぼ同年代である。グラバー家の三男ジェームズ(James)、六男アレキサンダー(Alexander)、七男アルフレッド(Alfred)、そして妹のマーサ(Martha)も後に来日している。

グラバー自身は安政6年(1859年)の長崎開港と同時に来日し、ジャーディン・マセソン商会(Jardine, Matheson & Co.)の代理人であったケネス・マッケンジー(Kenneth Mackenzie)のもとで働き始めた。マッケンジーの離日を機にジャーディン・マセソン商会の長崎における代理店業務を引き継ぎ、ほどなくフランシス・グルーム(Fransis Groom)とパートナーシップを組んでグラバー商会(Glover & Co.)を設立する。

初期のグラバー商会は、長崎と横浜の銀相場の違いや内外の金銀比価の差を利用して産を成した。また、幕末の長崎は茶の輸出が盛んで、グラバーも東山手居留地などに大規模な茶の再製場をつくり、一時は日本人1,000人以上を雇用していたという。五代友厚の書簡によく名前が上がるヲールト、つまり英商人ウィリアム・オルト(William Alt)は長崎の茶商大浦慶と組んで茶の輸出で成功した人物であった。

Thomas Glover, a Scottish merchant, came to Nagasaki in 1859.  He establilshed Glover & Co. and became Jardine, Matheson’s commercial agent in Nagasaki.  He formed strong links with the Samurai clans Satsuma, Choshu and Tosa.  Godai Tomoatsu was acquainted with Glover  in Nagasaki.

<参考文献>
杉山伸也『明治維新とイギリス商人 −トマス・グラバーの生涯−』1993年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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