五代友厚が長崎に滞在していた頃の足跡を求めて、長崎歴史文化博物館と旧唐人屋敷、大浦海岸沿いの居留地周辺を歩きました。
I visited Nagasaki Museum of History and Culture, which was built on the old site of Nagasaki Magistrate’s Office. Then, I walked around Chinese Settlement and European Settlement along the Oura Coast, Nagasaki.
長崎歴史文化博物館を訪れました。この博物館は長崎奉行所立山役所のあった場所に建てられたものです。江戸時代において長崎奉行所の権力は絶大でした。

出島付近を描いた17世紀の屏風絵がありました。出島の左側が長崎奉行所の西役所で、五代友厚が伝習生として通っていた長崎海軍伝習所はこの役所内におかれていました。

長崎海軍伝習所の実習船として使われていた観光丸の展開図も展示されています。

眼鏡橋のつくり方もわかります。

慶応2年(1866年)に写真家ベアトが撮影した長崎の町と港です。おびただしい数の船が停泊しています。

幕末・明治の写真家といえば、長崎の上野彦馬が有名です。上野彦馬が中島川沿いに開設した撮影局の看板プレートがありました。上野は坂本龍馬や高杉晋作の肖像写真も撮影したといいます。また、明治10年に西南戦争の戦跡を撮影して残したことでも知られています。

活版印刷の先駆者として知られる本木昌造が発行した新聞です。本木昌造はもともとオランダ通詞で、五代友厚が学んでいた長崎海軍伝習所でも通詞を務めていました。後に五代の懇望をうけ、大阪に大阪活版所を創ります。

唐人屋敷の模型がありました。出島に比べるとかなり広く、中国との貿易が盛大であったことがうかがえます。

この博物館の大きな特徴は、この場所にあった奉行所の一部が再現されていることでしょう。土・日曜日にはここで寸劇も行われます。私が訪ねたときは幕末のシーボルト事件が題材で、観客も巻き込んだかなり楽しい寸劇でした。

復元された奉行所から表門をのぞむ。

博物館の建物の東、日本銀行側から博物館の敷地に入ったところに英語伝習所跡の碑があります。安政5年(1858年)に英語に特化して設立された通詞養成所で、長崎海軍伝習所の教官などが指導にあたりました。

長崎歴史文化博物館正面玄関の道路をはさんだ向かいにたつ長崎会所跡の碑です。長崎会所は長崎奉行の監督のもと、江戸時代には中国とオランダ貿易の権益を一手に握っていました。500坪をこえるかなり大きな敷地だったようです。

旧唐人屋敷に向かいます。長崎新地中華街の北門から中華街を通り抜けました。本格的な中華料理はもちろん、ちゃんぽん、皿うどん、角煮まん、なんでもそろっています。色とりどりの華やかな中華菓子も目をひきます。

中華街を北から南に抜けると湊公園にある中国風の石造りの門が現れます。この公園は
毎年春節の時期に開催されるランタンフェスティバルのメイン会場になるそうです。

湊公園の前を左折して南の方へしばらく歩くと、唐人屋敷の入口付近に石碑を見つけることができます。

唐人屋敷の入口にそびえる門。中国に関係する場所は、すべて門がりっぱです。風水などにもとづいて建てられており、それぞれ意味があるようです。

門をくぐってすぐのところに熱烈歓迎の案内図。異国情緒はたっぷり残っていますが、観光地の喧騒はないのでゆっくり見て回ることができます。唐人屋敷の歴史は古く元禄2年(1689年)に完成しました。それまで中国人は市中に散宿していましたが、密貿易防止のためこのような居留地が設けられたということです。
土神堂です。唐人屋敷にある三堂の中では一番最初に建立されたといわれています。旧唐人屋敷の建物は何度も火災にあったり老朽化で解体され、現在残っているもののほとんどは明治以降に再興された建築物です。

観音堂です。本堂には観世音菩薩と関帝が安置されているそうです。

観音堂の入口に残るアーチ型の石門は唐人屋敷時代のものと言われています。

天后堂です。航海の安全を願って天后聖母を祀っているそうです。

土神堂近くにある煉瓦造りの建物。
唐人屋敷は、むかし十善寺郷と呼ばれた場所にありました。現在の館内町です。

次に長崎開港ゆかりの地を訪ねて海岸沿いを歩きます。東山手居留地のオランダ坂です。

オランダ坂の活水学院国際交流センター前にある湊会所跡の碑です。湊会所は安政6年(1859年)の長崎開港とともに開設されました。それまで中国とオランダ貿易の貿易事務はすべて長崎会所が扱っていましたが、他国にも開港されたことから、海の近くにもうひとつ会所ができました。

文久3年(1863年)に湊会所は運上所と改称されました。運上所跡の碑は、大浦海岸通りの長崎みなとメディカルセンター前にあります。五代友厚は大阪川口運上所の初代所長になりますが、長崎に滞在しているときから運上所ができる様子やその役割をみていたに違いありません。

大浦海岸通りを出島の方角に向かってさらに少し歩くと長崎税関があります。日本国すべての運上所が明治5年に税関と改称されました。

税関の向こうは長崎港です。

<住所>
長崎歴史文化博物館(長崎奉行所立山役所跡、英語伝習所跡):長崎市立山1-1-1
長崎会所跡:長崎市上町4-21
長崎新地中華街:長崎市新地町10
唐人屋敷跡:長崎市籠町6-12(唐人屋敷パーキング前)
土神堂:長崎市館内町16-17(旧唐人屋敷内)
観音堂:長崎市館内町5-14(旧唐人屋敷内)
天后堂:長崎市館内町18-5(旧唐人屋敷内)
湊会所跡:長崎市東山手町2-3(活水学院国際交流センター前)
運上所跡:長崎市新地町6-39(長崎みなとメディカルセンター前)
長崎税関:長崎市出島町1-36