
慶応4年(1865年)、外国公使が参内した際、五代友厚は小松帯刀とともにフランス公使を護衛した。薩摩藩の家老である小松は、京都では二本松藩邸に程近い「御花畑」と呼ばれる近衛家別邸を居所としていた。準藩邸ともいえる広大な屋敷で、薩長同盟はここで締結されたと言われている。
京都御所東の石薬師には大久保利通邸があった。大久保利通と五代友厚は、後年非常に親しい間柄となるが、幕末期にはさほど多くの接点は見えない。大久保邸は慶応2年(1866年)から同4年のあいだこの地にあったとされるが、ここで多くの談議がなされたであろうことは想像に難くない。
英仏蘭の天皇謁見が無事終り、各国公使は3月4日に退京した。3月6日は日曜日で、パークス襲撃事件で獅子奮迅の活躍をした中井弘から五代のもとに手紙が届いている。「お疲れだろうが、相談申し上げたいことがあるので弊寓にお越しいただきたい。モンブラン(Montblanc)と朝倉君も同道なれば幸甚である」といった内容のことが、かなりの冗談を交えて書かれている。中井は当時、京都木屋町付近の近江屋喜一郎方に奇寓していたらしい。
中井は薩摩藩士であったが、伊達宗城や後藤象二郎の引き立てで宇和島藩の周旋方や外国公使の応接掛をつとめるなどしていた。五代とは旧知の仲で生涯交友が続いた。非凡な文才とユーモアのある人物だったらしく、鹿鳴館の名付け親としても知られる。英公使館の通訳アーネスト・サトウ(Ernest Satow)は「愉快な小男の友人中井」と幾度となく会ったことを書き留めている。
Feudal retainers of Satsuma Domain, such as Komatsu Tatewaki, Okubo Toshimichi and Nakai Hiromu, had their temporary residences in Kyoto. Godai Tomoatsu had close relations with them both in public and private.
<参考文献>
アーネスト・サトウ著 維新史料編纂事務局訳編『維新日本外交秘録』1921年
大久保利通『大久保利通日記 下巻』1927年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年