五代友厚 京都薩摩藩邸(1)
Godai Tomoatsu, Kyoto Residences of the Satsuma Domain (1)

元治新撰皇都細見図
元治新撰皇都細見図 Kyoto Map 1864

慶応4年(1865年)に外国公使が天皇謁見のため上京した際、フランス公使が滞在したのは薩摩藩屋敷に隣接する相国寺だった。この屋敷は文久2年(1862年)に造られた比較的新しいもので、これより前、薩摩藩の京屋敷は18世紀初めより長らく錦小路にあった。

錦小路は四条通の一本北で、地下水に恵まれ古くから市場として賑わった通りである。藩屋敷は市場の西端の高倉通をこえてすぐのところにあった。錦の屋敷は焼失と再建を繰り返したが、元治元年(1864年)禁門の変により焼亡した後は、二本松に新たな藩邸ができていたこともあって再興されることなく、明治に入り廃邸となった。

相国寺西隣りの屋敷は、京都御所の北にあり、通りの名前から二本松屋敷とも呼ばれていた。現在の同志社大学付近である。薩摩藩は幕末に多数の兵を京都に送り込むようになり、錦の屋敷では収容しきれず、天明の大火(1788年)のあと焼け野原のようになっていた相国寺の一角を借りて屋敷を大きくした。

慶応2年(1866年)の薩長同盟に到る過程で、薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允がこの二本松屋敷で会合を重ねたとされる。また、坂本龍馬は寺田屋で遭難し薩摩の伏見屋敷にかくまわれたが、その後二本松屋敷に移って療養していたという。

幕末の薩摩藩は、軍事調練のため岡崎と小松原にも土地を確保していた。岡崎は現在の平安神宮あたりで、幕末になって薩州はじめ越州、芸州、阿波屋敷などが建ち並ぶようになった。小松原は相国寺からまっすぐ西へいった衣笠山のふもとにあり、陣屋、休息所、勤番所、弾薬庫などを備えていたという。

At the end of Edo period, there were three or four residences of the Satsuma Domain in Kyoto. One was in Nishiki-koji, which was destroyed by fire in 1864. The Nihonmatsu Residence was built in 1862.  It was adjacent to the Shokoku-ji temple and was located on the north of the Imperial Palace.

<参考文献>
錦市場商店街
http://www.kyoto-nishiki.or.jp
臨済宗相国寺派
http://www.shokoku-ji.jp

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