五代友厚 長崎海軍伝習所(1)
Godai Tomoatsu, Nagasaki Naval Training Centre (1)

長崎海軍伝習所絵図
長崎海軍伝習所絵図 陣内松齢 The Nagasaki Naval Training Centre by Jinnouchi Shourei

安政2年12月(1856年1月)、幕府はオランダに発注した軍艦の乗組員養成のため、また長い目で見れば海軍兵学校教育のため、長崎に海軍伝習所を開く。日本側の伝習所総督は目付・永井尚志、教育団長はオランダ海軍のペルス・ライケン(Pels Rycken)大尉であった。

五代友厚は、開明的な藩主島津斉彬の下、安政4年(1857年)より海軍伝習所へ遊学する機会に恵まれる。その後、大阪に移るまでのほとんどの期間を長崎で過ごす。五代が長崎に到着したのは二期目の幕府伝習生が入所し、教育団長がライケンからホイセン・ファン・カッテンディーケ(Huyssen van Kattendyke)に交代するときで、その滞日中のカッテンディーケの日記が残っている。残念ながら五代に関する記述はないが、伝習生の様子やオランダ人から見た日本の印象などが細かく記されていて興味深い。

海軍伝習所の正規生である幕臣関係の伝習生は、勝海舟はじめ榎本武揚、松本良順など多いときで40名ほどが学んでいた。また、各藩から聴講生も受け入れることになり、その数130名前後であったという。佐賀藩と福岡藩の人数が最も多く、薩摩藩からは五代友厚、税所篤、河村良純など20名ほどが派遣されていた。

伝習所の開所式においては、総督永井尚志が礼服を着用した伝習生を率いて出島に赴き、日本式に入門の式を行ったという。服装は、「稽古始めの日は、熨斗目(のしめ)麻上下、平日は略服、かつ、伊賀袴相用い候ても苦しからず候事」と定められていた。

Godai Tomoatsu was sent to Nagasaki in 1857 to study at the Nagasaki Naval Training Centre, which was opened by the Tokugawa Shogunate, under the support of the Dutch instructors.

<参考図書>
勝海舟著 勝部真長編『勝海舟全集12〔海軍歴史I〕』1978年
カッテンディーケ著 水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』1964年
藤井哲博『長崎海軍伝習所』1991年

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五代友厚 京都薩摩藩邸(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Kyoto Residences of the Satsuma Domain (Footprints)

京都の薩摩藩邸跡などを見て回りました。

I visited Kyoto and looked around the old sites of samurai residences of the Satsuma Domain.

錦小路にあった薩摩屋敷之跡です。碑は大丸京都店の西側にあります。明治時代に廃邸になった後は米穀や株式を扱う取引所となり、明治43年(1910年)より大丸呉服店となりました。

薩摩屋敷之址(錦小路屋敷)
薩摩屋敷之址(錦小路屋敷) The Monument of the Nishikikoji Residence of the Satsuma Domain

薩摩屋敷之址(錦小路屋敷)説明板大丸京都店所在地の歴史

大丸近くの地下鉄烏丸線四条駅から地下鉄に乗り、鞍馬口駅で降ります。駅を出たところが烏丸鞍馬口です。

烏丸鞍馬口
The Cross Road of Krasuma Street and Kuramaguchi Street

小松帯刀邸として使われていた近衛家別邸御花畑屋敷跡に向かいます。鞍馬口通を西に入り、一筋先の室町通と交差する場所に「小松帯刀寓居跡」の碑がありました。薩長同盟所縁之地という説明板もあります。屋敷はこのあたり一帯を占める広大なものだったようです。

小松帯刀寓居跡
小松帯刀寓居跡 The Monument of Komatsu Tatewaki’s Temporary Residence in Kyoto
御花畑御屋敷跡
御花畑御屋敷跡 The Monument of Ohanabatake Residence, Kyoto
御花畑屋敷跡説明版
The Explanation Board of the Ohanabatake Residence, Kyoto

地下鉄でひと駅分南に戻り、今出川駅で降りると烏丸今出川です。東側に同志社大学があります。赤煉瓦の建物群が目を引きます。ここに薩摩藩の二本松屋敷がありました。大学の西門わきに「薩摩藩邸跡」碑と説明板があります。

薩摩藩邸跡(二本松藩邸)
薩摩藩邸跡(二本松藩邸)The Monument of the Nihonmatsu Residence of the Satsuma Domain
二本松屋敷説明板
京・薩摩藩邸(二本松屋敷)説明板 The Explanation Board of the Nihonmatsu Residence of the Satsuma Domain

同志社大学と隣り合うようにして相国寺があります。二本松屋敷は相国寺の敷地の一部でした。

大本山相国寺総門
相国寺総門 The Main Gate of the Shokokuji Temple
相国寺
相国寺 Shokokuji Temple

相国寺の東側の門を出て上立売通を東に入ると、甲子役戊辰役薩藩戦死者墓があります。禁門の変と鳥羽・伏見の戦いで戦死した薩摩藩士を祀った墓です。

薩藩戦死者墓
甲子役戊辰役薩藩戦死者墓 The Grave for the War Dead of the Satsuma Domain

御所東の石薬師御門東側の寺町通をこえ、石薬師通を東へ入ったところに大久保利通旧邸の古い碑がたっています。京都大学附属図書館のデータベースに邸宅茶室の写真が残っています。

大久保利通旧邸
大久保利通旧邸 The Old Residence of Okubo Toshimichi, Kyoto

最後に中井弘の幕末期寓居跡へ行きました。三条から高瀬川沿いに木屋町を南に下がったところにあります。都会館というビルの入口に碑がありました。お龍独身時代寓居跡とも刻まれています。此付近ということなので、実際にここであったかどうか定かではありません。宇和島藩の土居通夫も一時ここに同居していたといいます。土居通夫は後に大阪商工会議所会頭となりました。五代友厚とともに大阪の発展に尽くした人です。近くには土佐藩邸跡もあります。

中井弘幕末期寓居跡
中井弘幕末期寓居跡 The Monument of Nakai Hiromu’s Temporary Abode

ちなみに、薩摩藩の調練場があったと言われる小松原は、北野天満宮と等持院のあいだぐらいの場所ですが、慶応4年の『京繪圖(玄々堂松本龍山鐫)』で見ると、西大路より西側はかなり大雑把に描かれていて、「薩州ヤシキ」も金閣寺より北にあるように見えます。この地図は上が西です。

薩摩藩小松原調練場
薩摩藩小松原調練場(京繪圖 玄々堂松本龍山 慶応四年) The Military Base of the Satsuma Domain (Kyo-ezu Map, 1868)

<住所>
薩摩屋敷之址(錦小路屋敷):京都市中京区阪東屋町(錦小路通東洞院下ル)
小松帯刀寓居跡碑:京都市上京区森之木町(室町通鞍馬口下ル)
薩摩藩邸跡碑(二本松屋敷):京都市上京区岡松町(同志社大学)
相国寺:京都市上京区相国寺門前町(今出川通烏丸東入)
甲子役戊辰役薩藩戦死者墓:京都市上京区相国寺門前町(上立売通)
大久保利通旧邸跡:京都市上京区新夷町(石薬師通寺町東入)
中井弘幕末期寓居跡:京都市中京区材木町(木屋町通)

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五代友厚 京都薩摩藩邸(2)
Godai Tomoatsu, Kyoto Residences of the Satsuma Domain (2)

大久保利通邸
大久保利通邸(『維新史蹟図説 京都の巻』1924) The Residence in Kyoto of Okubo Toshimichi

慶応4年(1865年)、外国公使が参内した際、五代友厚は小松帯刀とともにフランス公使を護衛した。薩摩藩の家老である小松は、京都では二本松藩邸に程近い「御花畑」と呼ばれる近衛家別邸を居所としていた。準藩邸ともいえる広大な屋敷で、薩長同盟はここで締結されたと言われている。

京都御所東の石薬師には大久保利通邸があった。大久保利通と五代友厚は、後年非常に親しい間柄となるが、幕末期にはさほど多くの接点は見えない。大久保邸は慶応2年(1866年)から同4年のあいだこの地にあったとされるが、ここで多くの談議がなされたであろうことは想像に難くない。

英仏蘭の天皇謁見が無事終り、各国公使は3月4日に退京した。3月6日は日曜日で、パークス襲撃事件で獅子奮迅の活躍をした中井弘から五代のもとに手紙が届いている。「お疲れだろうが、相談申し上げたいことがあるので弊寓にお越しいただきたい。モンブラン(Montblanc)と朝倉君も同道なれば幸甚である」といった内容のことが、かなりの冗談を交えて書かれている。中井は当時、京都木屋町付近の近江屋喜一郎方に奇寓していたらしい。

中井は薩摩藩士であったが、伊達宗城や後藤象二郎の引き立てで宇和島藩の周旋方や外国公使の応接掛をつとめるなどしていた。五代とは旧知の仲で生涯交友が続いた。非凡な文才とユーモアのある人物だったらしく、鹿鳴館の名付け親としても知られる。英公使館の通訳アーネスト・サトウ(Ernest Satow)は「愉快な小男の友人中井」と幾度となく会ったことを書き留めている。

Feudal retainers of Satsuma Domain, such as Komatsu Tatewaki, Okubo Toshimichi and Nakai Hiromu, had their temporary residences in Kyoto. Godai Tomoatsu had close relations with them both in public and private.

<参考文献>
アーネスト・サトウ著 維新史料編纂事務局訳編『維新日本外交秘録』1921年
大久保利通『大久保利通日記 下巻』1927年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年

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