五代友厚 京都パークス襲撃事件(2)
Godai Tomoatsu, The Kyoto Incident (2)

パークス襲撃事件
パークス襲撃事件 Attack on Sir Harry Parkes (Le Monde illustré 13 juin 1868)

慶応4年2月30日(1868年3月23日)、外国公使が初めて日本の天皇に謁を賜い、開国の大方針が内外に宣明された。

この日、仏公使レオン・ロッシュ(Léon Roches)は、小松帯刀や五代友厚ほか薩摩藩と仏水兵護衛のもと、1時ごろ相国寺を出発した。同じ頃、蘭公使ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック(Dirk de Graeff van Polsbroek)は、加賀藩の護衛で駕籠に乗って南禅寺を出発。英公使ハリー・パークス(Harry Parkes)は前後を自国兵、さらに日本兵に護衛され騎馬で知恩院を出る。

謁見は仏英蘭の順となる予定であったが、英が来ないため仏蘭のみ先に謁見を済ませ、その後ロッシュとポルスブルックが宮中溜所で日本人高官たちと和やかに談笑しているところへ英公使襲撃の報がもたらされたという。

英公使一行は、新橋通から縄手通を北に折れたところで朱雀操と三枝蓊に襲われる。護衛の中井弘や後藤象二郎が身を挺して反撃し、朱雀操の首をその場で刎ねた。パークスは無事だったが、多数が負傷したため参内を中止し知恩院へ戻らざるを得なかった。三枝蓊は捕らえられた。

これを聞いたポルスブルックは、加賀藩兵に囲まれ歩いて帰ったという。仏の相国寺は御所のすぐ外で襲う間もないだろうから、次に襲われるとしたら自分であり、歩いた方が周囲がよく見渡せるとの考えからだったという。

この日、外国事務局関係者は伊達宗城邸に集まり、パークスへの謝罪文を書き上げた。五代自筆の草稿が残っている。五代ら新政府の奔走尽力の甲斐あって、パークスは3日後にあらためて参内し無事謁見を終えた。

On 23rd March 1868, British diplomat Harry Parkes was attacked unsuccessfully by two Samurais on his way to the Imperial Palace in Kyoto.  At that time, Godai Tomoatsu was escorting the group of French Diplomats from Shokokuji temple.

<参考文献>
アーネスト・サトウ著 維新史料編纂事務局訳編『維新日本外交秘録』1921年
アルジャーノン・B・ミットフォード著 長岡 祥三訳『英国外交官の見た幕末維新』1998年
ヘルマン・ムースハルト編著 生熊文訳『ポルスブルック日本報告』1995年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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