浜寺公園や堺紡績所跡などを訪ねました。
I visited the site of Sakai Spinning Mill at the Meiji era. Godai Tomoatsu was assigned to the sales manager of the mill.
大阪の天王寺から阪堺電車で浜寺公園へ向かいます。いわゆるちんちん電車です。ちんちん電車といっても最新式のトラムのような車両です。なんばから南海電車で行くこともできます。

浜寺駅前駅で降ります。すぐ目の前に浜寺公園の入口が見えます。
大久保利道の詠歌を刻んだ惜松碑は、入口を入ってすぐ右手(北側)、「鳳凰の松」と呼ばれる名松の向かいにあります。

「於東二起久(おとにきく)高師農濱廼(たかしのはまの)者末丶都毛(はままつも)世能阿多奈見盤(よのあだなみは)乃可禮左利計李(のがれざりけり)」


この歌がきっかけで松の伐採は中止され、これより先明治6年1月15日に出されていた太政官布達第16号により、一帯は浜寺公園となりました。
浜寺公園からの眺め。正面が埋立地になってしまったので、海というより川のように見えます。惜松碑は残りましたが、展望は昔とはずいぶん変わったことでしょう。

阪堺電車で堺の町の中心部に戻ります。妙国寺前駅もしくは神明町駅で降りて東に進むと、本願寺堺別院があります。

明治4年から10年間、堺県庁として使われていました。当時の知事は薩摩藩の税所篤です。県庁として使われているあいだ、堺別院は境内地と建物をすべて献上し、近くに代わりの寺を建てて移ったそうです。


たいへん大きなお寺で、何百年も前からありそうな銀杏の大樹がそびえたっていました。ちなみに、堺事件で土佐藩士の切腹が行われた妙国寺は、ここからひと筋南にいったところです。

本願寺堺別院から海の方に向かって10分ほど歩くと、集合住宅の南角に堺紡績所跡があります。五代友厚は薩摩藩の堺紡績掛でした。売捌を担当する出張所は、こことは別に大阪の四ツ橋にあったといいます。


明治10年には明治天皇が視察に訪れました。2月13日というのは、まさに西南戦争が始まる前夜です。

大浜公園にある大阪窯業煉瓦工場之跡碑です。もともと堺では良質な粘度がとれたため瓦づくりが盛んで、港にも近いことから、西洋建築や機械工場が増えるにつれ煉瓦工場が多くできました。造幣局建設に使われた煉瓦も多くは堺で焼かれたものでした。

<住所>
惜松碑:堺市西区浜寺公園町(浜寺公園)
堺県庁跡:堺市堺区神明町東3丁1-10(本願寺堺別院)
堺紡績所跡、明治天皇御駐蹕之跡:堺市堺区戎島町1丁55-3
大阪窯業煉瓦工場之跡:堺市堺区大浜北町4丁3-50