五代友厚 神戸居留地(2)
Godai Tomoatsu, Kobe Foreign Settlement (2)

初代神戸税関庁舎 
初代神戸税関庁舎 Kobe Customs Building at the Meiji Era

大阪と兵庫の運上所をそれぞれ掌管していた五代友厚と伊藤博文は、外国事務や輸出入の取り締まりについて意見を交換することもあったようだ。

兵庫運上所は現在の神戸税関近くと中突堤近くに2か所あり、それぞれ東運上所、西運上所と呼ばれていた。東運上所は居留地の東端に位置し、勝海舟の建言により幕府が開いた海軍操練所の跡地にあった。波止場はそのまま使えたので、外国との貿易用に運上所と倉庫を建てた。海軍操練所自体、もともと船蓼場(船底に付着する貝殻や船喰虫の除去、修理のためのドック)のあったところで、その船蓼場は呉服商の網屋吉兵衛が長年の夢をかなえて建設したものであった。神戸は水深があり大型船が碇泊できることに加え、波止場や運上所、居留地用地を順調に確保できたことが後の発展につながったといえる。

居留地の西端には船客乗降場があり、メリケン波止場と呼ばれていた。すぐ近くにアメリカ領事館があったことがその名の由来という。メリケン波止場より西、居留地を外れたところに国内大型船の荷役を扱う国産波止場と西運上所があった。さらに西側の弁天浜にも波止場があって、和船はここを利用した。弁天浜には専崎弥五平という商人の屋敷があり、長州藩とつながりの深かった専崎は、七卿落ちの公家たちのために船を手配し、禁門の変で負傷した長州藩士をかくまい、西南戦争では屋敷を運輸事務所として提供した。この屋敷は、明治天皇の行在所としても使われていた。

There were two Unjoshos(tax offices) and four wharves at the port of Hyogo(Kobe). The Director of Hyogo Unjosho, Ito Hirobumi and that of Osaka Unjosho, Godai Tomoatsu cooperated with each other to deal with diplomatic problems occurred after opening the ports.

<参考文献>
神戸税関ホームページ http://www.customs.go.jp/kobe/
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
道谷卓『神戸歴史トリップ−新・中央区歴史物語(改訂版)』2005年

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五代友厚 神戸居留地(1)
Godai Tomoatsu, Kobe Foreign Settlement (1)

兵神市街之図
兵神市街之図 明治13年 Hiogo and Kobe Map (University of California)

兵庫(神戸)は、1868年1月1日に開港した。当初1863年1月1日の開港予定であったが、朝廷の反対や国内の諸事情で折り合いがつかず、幕府は文久遣欧使節をヨーロッパ諸国に派遣して兵庫・新潟・大阪・江戸の開港市を5年間延期することに成功した。

使節の正使は竹内保徳、他に柴田剛中(しばたたけなか)、福沢諭吉、寺島宗則などが同行した。帰国後、柴田は外国奉行として函館で勤務していたが、製鉄所及び軍制調査のため慶応元年(1865年)に再び英仏へ派遣された。同年ヨーロッパを訪れていた五代友厚は、慶応元年の暮れから年始にかけて、柴田と同じロンドンのランガム・ホテル(The Langham Hotel)に滞在した。幕府から海外渡航が禁止されていた時代、五代らは変名を使って密航というかたちで渡欧しており、柴田一行は幕吏であったから、五代は幕府から尋問を受けた際の申し開きまで考えていたが、結局五代らの滞欧が問題になることはなかったようだ。

柴田は慶応3年、大坂町奉行、兵庫奉行を兼務して兵庫・大阪の開港市や外国人居留地問題に取り組んでいた。兵庫(神戸)においては、運上所や居留地、埠頭の造成、西国往還の付け替えなどを進め、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の大阪・兵庫開港市式典に出席している。しかし、慶応4年1月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まり、6日に徳川慶喜が大阪から江戸へ敗走すると、柴田も10日に兵庫を脱出した。運上所は仮の外国公使館として委譲され、居留地の警護は各国に任されていたが、翌11日に神戸事件が起きる。その後、兵庫運上所を伊藤博文、大阪運上所を五代友厚が、新政府の外国事務掛として引き継ぐこととなった。

A shogunate official, Shibata Takenaka devoted himself to make the necessary arrangements for opening the ports of Kobe and Osaka. The ports finally opened in 1st January 1868 but the regime changed soon later. His place was taken over by the officials of new government, Ito Hirobumi and Godai Tomoatsu.

<参考文献>
神戸市文書館ホームページ http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/top.html
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
宮永孝「イギリスにおける柴田日向守」『法政大学社会労働研究』1999-3

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五代友厚 神戸事件(足跡篇)
Godai Tomoatsu, The Kobe Incident (Footprints)

神戸事件の舞台となった場所を訪ねました。

I visited Sannomiya Shrine and Nofuku Temple in Kobe, the scene of the Kobe Incident in 1868.

備前藩と外国人が最初に衝突した場所は、神戸元町の大丸百貨店北側にある三宮神社付近です。その後、生田川、現在のフラワーロードあたりで撃ち合いになったといいます。

神戸三宮神社
三宮神社 Sannomiya Shrine

三宮神社の鳥居横に「神戸事件発生地」の碑、また境内に神戸事件と同時代の大砲が据えられています。

神戸事件発生地
神戸事件発生地碑 The Site of Kobe Incident
三宮神社にある大砲
三宮神社にある大砲 A Cannon Displayed at the Sannomiya Shrine
大砲の説明板
大砲の説明板 Explanation Board “The Cannon”

三宮神社の向かい側、大丸百貨店前には「神戸外国人居留地の碑」もあります。ここより海に向かって南側が居留地と定められていました。

神戸外国人居留地跡の碑
神戸外国人居留地跡の碑 The Monument of Kobe Foreign Settlement

JR兵庫駅近くまで移動します。
外国事務の執務を行っていたのは、兵庫裁判所、後の初代兵庫県庁です。ここはもともと兵庫城のあったところで、江戸時代は大阪奉行所が管轄する兵庫勤番所でした。兵庫陣屋とも呼ばれていました。

兵庫城跡
兵庫城跡 Hyogo Castle Ruins

兵庫城跡の前を通っているのは新川運河です。キャナルプロムナードとして遊歩道が整備されていて、天気のよい日は潮風に吹かれて気持ちよく歩けます。

キャナルプロムナード
キャナルプロムナード The Canal Promenade, Hyogo

ここから真っすぐ北に歩いて5分もかからない場所に、瀧善三郎が切腹した永福寺がありました。地図のほぼ中央、「南仲町」と赤字で書かれた付近が永福寺のあった場所と思われます。

永福寺付近の地図
現在の南仲町付近 The Map of Minaminaka-machi

江戸時代の地図です。左上の光った部分の右下が能福寺、その右(東)が法蓮寺、さらに右(東)に永福寺があります。能福寺と法蓮寺は現存していますが、瀧善三郎が切腹した永福寺は第二次世界対戦の空襲で焼失し、遺構などもまったく残っていません。

永福寺の場所
江戸時代の南仲町付近 The Old Map of Minaminaka-machi

永福寺にあった瀧善三郎の石碑は寺の焼失後、境内跡地にできたカネテツデリカフーズで供養が続けられていましたが、その後能福寺に移設されました。カネテツデリカフーズも移転し、現在はマンションなどになっています。

永福寺があった南仲町付近
永福寺があった南仲町付近 The Vincity of Minaminaka-machi area where the Eifuku Temple used to be

電柱に取り付けられた南仲町のプレートの上にあるNTTの標識には「カネテツ」の文字が残っています。南仲町の標識

能福寺です。
805年の開創と言われ、平清盛ゆかりの寺でもあります。

能福寺
能福寺 Nofuku Temple, Hyogo

兵庫大佛と呼ばれる巨大な大仏が目を引きます。

能福寺の兵庫大佛
能福寺の兵庫大佛 Great Buddha at Nofuku Temple

兵庫大佛ができたのは明治24年(1891年)ですが、当時から外国人にも人気があったようで、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)に依頼して寺の縁起を説明する英文を作ってもらっています。能福寺の境内にある石碑にその英文が残されています。五代友厚からジョセフ・ヒコへ送った手紙があるので、二人は面識があったと考えられます。

能福寺の英文碑
能福寺の英文碑 Stone Monument written in English by Joseph Hiko
能福寺英文碑の説明板
能福寺英文碑の説明板 Explanation Board about Joseph Hiko

神戸事件の責任を負って切腹した瀧善三郎正信の碑です。非常に手厚く供養されているのがわかります。

滝善三郎正信碑
滝善三郎正信碑 Taki Zenzaburo Masanobu Monument

瀧善三郎正信碑説明板

能福寺の神戸事件説明板
能福寺の神戸事件説明板 Explanation Board “Kobe Incident”

<住所>
三宮神社:神戸市中央区三宮町2−4−4
神戸外国人居留地の碑(大丸神戸店):神戸市中央区明石町40
兵庫城跡石碑:神戸市兵庫区切戸町5
能福寺:神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39

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