
神戸事件が滝善三郎の切腹により一応の解決をみたのが慶応4年2月9日(1868年3月2日)、それからわずか数日後に再び堺で攘夷事件が起こる。堺は大阪から南にわずか15キロほどの場所に位置するかつて海外交易で栄えた町である。
伊達宗城公家日記によると、堺事件が起こった2月15日(3月8日)は、七半時(午後5時頃)より大阪のフランス公使の旅寺にて懇親の宴会を催していたという。2月下旬に京都で各国公使が明治天皇に謁見することが決まっており、その話などもしていたようだ。そこに堺港で土佐藩士とフランス人が衝突、一人を殺害したらしいという知らせが入った。仏公使レオン・ロッシュ(Léon Roches)にもその旨伝えられたがさして騒ぎにはならず、翌日調査の上詳細を報告するということで宴席は続いた。
しかし、実際は仏水兵に多数の死傷者及び行方不明者が出ており、フランス側は早急に行方不明者を返すよう要求してきた。翌日五代友厚は東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)とともに堺に急行し、行方不明であった7人の遺体を探し出し、明け方報告のため大阪に戻り伊達宗城(だてむねなり)のもとに行っている。
森鴎外の『堺事件』では、堺町を警護していた土佐藩兵が発砲したのは、仏水兵の暴慢な振る舞いがためとなっている。一方、死傷者を出した仏艦デュプレックス号(La Dupleix)の艦長アベル・デュ・プティ=トゥアール(Abel du Petit-Thouars)によれば、彼らは測量をしていただけであり、うち2名が仏人上司の許可を得て防波堤を散歩していた際突然武装した集団に取り囲まれ、その後銃撃戦が始まったとしている。伊達宗城も、五代らの報告により、仏人による乱暴などはなかったと捉えていたようだ。
Ten French sailors and one officer were killed at the port of Sakai, by Samurais of the Tosa Clan in 8 March 1868. Godai Tomoatsu made every exertion in order to solve the incident.
<参考文献>
アベル・デュプティ=トゥアール著 森本英夫訳『フランス艦長の見た堺事件』1993年
宇和島伊達文化保存会監修『伊達宗城公御日記 慶応三四月より明治元二月初旬』2015年
大岡昇平『堺港攘夷始末』1992年
森鴎外『堺事件』1914年