神戸事件の舞台となった場所を訪ねました。
I visited Sannomiya Shrine and Nofuku Temple in Kobe, the scene of the Kobe Incident in 1868.
備前藩と外国人が最初に衝突した場所は、神戸元町の大丸百貨店北側にある三宮神社付近です。その後、生田川、現在のフラワーロードあたりで撃ち合いになったといいます。

三宮神社の鳥居横に「神戸事件発生地」の碑、また境内に神戸事件と同時代の大砲が据えられています。



三宮神社の向かい側、大丸百貨店前には「神戸外国人居留地の碑」もあります。ここより海に向かって南側が居留地と定められていました。

JR兵庫駅近くまで移動します。
外国事務の執務を行っていたのは、兵庫裁判所、後の初代兵庫県庁です。ここはもともと兵庫城のあったところで、江戸時代は大阪奉行所が管轄する兵庫勤番所でした。兵庫陣屋とも呼ばれていました。

兵庫城跡の前を通っているのは新川運河です。キャナルプロムナードとして遊歩道が整備されていて、天気のよい日は潮風に吹かれて気持ちよく歩けます。

ここから真っすぐ北に歩いて5分もかからない場所に、瀧善三郎が切腹した永福寺がありました。地図のほぼ中央、「南仲町」と赤字で書かれた付近が永福寺のあった場所と思われます。

江戸時代の地図です。左上の光った部分の右下が能福寺、その右(東)が法蓮寺、さらに右(東)に永福寺があります。能福寺と法蓮寺は現存していますが、瀧善三郎が切腹した永福寺は第二次世界対戦の空襲で焼失し、遺構などもまったく残っていません。

永福寺にあった瀧善三郎の石碑は寺の焼失後、境内跡地にできたカネテツデリカフーズで供養が続けられていましたが、その後能福寺に移設されました。カネテツデリカフーズも移転し、現在はマンションなどになっています。

電柱に取り付けられた南仲町のプレートの上にあるNTTの標識には「カネテツ」の文字が残っています。
能福寺です。
805年の開創と言われ、平清盛ゆかりの寺でもあります。

兵庫大佛と呼ばれる巨大な大仏が目を引きます。

兵庫大佛ができたのは明治24年(1891年)ですが、当時から外国人にも人気があったようで、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)に依頼して寺の縁起を説明する英文を作ってもらっています。能福寺の境内にある石碑にその英文が残されています。五代友厚からジョセフ・ヒコへ送った手紙があるので、二人は面識があったと考えられます。


神戸事件の責任を負って切腹した瀧善三郎正信の碑です。非常に手厚く供養されているのがわかります。


<住所>
三宮神社:神戸市中央区三宮町2−4−4
神戸外国人居留地の碑(大丸神戸店):神戸市中央区明石町40
兵庫城跡石碑:神戸市兵庫区切戸町5
能福寺:神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39