五代友厚 退官(2)
Godai Tomoatsu, Resignation (2)

惣難獣
惣難獣(五代龍作『五代友厚伝』より)

五代友厚は、明治2年4月21日(1869年6月1日)より一時東京に赴いている。岩倉具視や大久保利通らも同日兵庫を出帆し東京に居を移した。上京中、五代は築地の大隈重信邸に滞在していたという。

新政府は高官公選を行い、新たな体制のもと、五代は5月15日付で会計官権判事を仰せ付けられる。そして、5月24日には横浜勤務を命ぜられた。横浜通商司を五代が担い、大阪は井上馨、山口尚芳が配されることになった。これに対し、大阪では151名もの連名で五代の復職を願う奉歎願候書付が出されたが、残留は許されなかった。

この間、大阪の豪商山中善右衛門、広岡久右衛門ら6名が政府より上京を命ぜられ、東京で通商会社・為替会社の設立を懇々と勧説された。渋る大阪商人たちを五代も同席して説得したという。その後、大阪通商会社・為替会社は、この6名にさらに3名を加えた9名の総頭取のもと8月に設立された。

五代は、外国事務の用向を理由に「一応帰坂」のため、6月24日付で20日の御暇を願い出た。しかし、大久保利通日記には、1週間余り後の7月3日にはすでに「五代免役ノ事等御受合相成候」とあり、7月4日付で「依願、是迄の職務被免候事」という太政官辞令が下りている。

横浜転勤の経緯や官を辞した理由には諸説あるが、五代退官後の戯作という「惣難獣」には、頭の剣で人の頭をおさえ、長い爪で金銭をつかみ、背の翼で一所に留まることなく、万民を悩ます事甚だしい獣が描かれている。当時の官の状況は五代の正義感からは到底受け入れ難く、また、嘆願書を出してまで五代留任を望んだ大阪を義理堅い五代は見捨てることができなかったのかもしれない。

Godai Tomoatsu was ordered by the Meiji Government to transfer from Osaka to Yokohama, as an officer of Finance Office in 1869. He once accepted, but in two months, resigned from the Office and returned to Osaka.

<参考文献>
大久保利通『大久保利通日記 下巻』1927年
菅野和太郎「明治初年の大阪為替会社に就いて」『経済論叢(第二号第二十八巻)』1929年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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