五代友厚 退官(1)
Godai Tomoatsu, Resignation (1)

大坂為替会社紙幣
大坂為替会社紙幣 金壹両(国立印刷局) A Bill issued by Osaka Exchange Company

由利公正の建議により、慶応4年閏4月25日(1868年6月15日)、会計官所管の一司として京都に商法司が設置された。大阪においては翌日26日に支署が設けられ、その下部組織として同年5月30日、過書町(現在の北浜2〜3丁目)に商法会所が設置された。これは、5月15日より発行された不換紙幣たる太政官札の流通促進を目的としていた。新政府は太政官札の発行によりその財政不足を補い、殖産興業の資金供給を図らんとしたが、信用薄弱な太政官札は一般には歓迎されず、経済は混乱した。また、太政官札の運用に統一性がなく通商に不便が生ずる旨外国公使たちから抗議があり、五代友厚ら外国官はこれにも対応しなければならなかった。

商法司は、成果なきまま明治2年3月15日に廃止となる。この約1ヶ月前、明治2年2月22日(1869年4月3日)に外国貿易事務の管理を目的とした通商司が各開港場に置かれていたが、商法司廃止に伴い、商法司の事務もその所管するところとなり、通商司の最も重要な仕事は、通商・為替会社の設立指導となった。大阪通商会社ならびに大阪為替会社は、明治2年8月24日、上中之島町(現在の中之島1〜2丁目)にあった通商司内に設置された。通商会社は内外の商業・金融を統制し、為替会社は主として通商会社への融資を行い、さらには銀行券発行の特権をも付与された。通商・為替会社は、不完全とはいえ日本最初の株式会社、銀行であり、日本資本主義化の端緒を開いたといえよう。

During the first few years of the Meiji Era, Japan established some governmental agencies which were similar to the so-called “company” and ”bank”.  From this time forward, Japan was heading toward capitalism to confront the pressure of the other advanced capitalistic countries.

<参考文献>
菅野和太郎「明治初年の大阪為替会社に就いて」『経済論叢(第二号第二十八巻)』1929年
菅野和太郎「大阪為替会社の業務」『経済論叢(第三号第二十八巻)』1929年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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