五代友厚 大阪へ(足跡篇)
Godai Tomoatsu, To Osaka (Footprints)

大阪の西町奉行所跡と川口に行きました。幕末・明治初期に外交事務を執り行っていた場所です。

I went to the site of Nishi-machi Magistrate of the Edo period and Kawaguchi in Osaka.  Godai Tomoatsu was working there as an officer of the Foreign Affairs Office from 1868 to 1869.

五代友厚は、慶応4年(1868年)に徴士参与兼外国事務掛として外国事務の仕事を任ぜられましたが、外国事務局、つまり現在の外務省が初めて役所を構えたのが、大阪の旧西町奉行所でした。

大阪西町奉行所跡
大阪西町奉行所跡 Osaka Nishi-machi Magistrate

西町奉行所は、松屋町筋にあるマイドームおおさか(大阪産業振興機構)辺りにありました。

マイドームおおさか

マイドームおおさかの隣りは大阪商工会議所です。奉行所は、商工会議所にまでまたがるかなり大きな敷地を有していたようで、石碑も2箇所にたっています。ちなみに、五代友厚が初代会頭をつとめた頃の大阪商法会議所は、こことは別の場所にありました。

大坂西町奉行所址
大阪西町奉行所址 Osaka Nishi-machi Magistrate

外国事務総督伊達宗城(だてむねなり)は大阪裁判所副総督でもあり、旧西町奉行所は、つまり大阪裁判所でもありました。大阪裁判所は慶応4年5月に大阪府と改められ、旧西町奉行所はそのまま初代大阪府庁となります。建物は、西町奉行所当時のものを使っていました。

大阪商工会議所には、3つの銅像が並び立っています。左から初代会頭五代友厚、第7代会頭土居道夫、第10代会頭稲畑勝太郎です。土居道夫は、川口運上所で五代友厚の部下でした。

商工会議所銅像
商工会議所銅像(五代友厚、土居通夫、稲畑勝太郎) Bronze Statues, Osaka Chamber of Commerce and Industry
五代友厚銅像
大阪商工会議所の五代友厚銅像 Godai Tomoatsu Bronze Statue, Osaka Chamber of Commerce and Industry

大阪開港の地、川口運上所跡です。港といってもだいぶ川を上ったところで安治川と木津川の分岐点にあります。川向こうが中之島の西の端です。五代友厚は、西園寺雪江とともに大阪の外交事務のいっさいをここで引き受けました。

大阪開港の地
大阪開港の地 The Site of the Opening of Osaka Port
川口運上所跡と川口電信局跡の説明板
川口運上所跡と川口電信局跡の説明板 The Explanation Board of the Kawaguchi Unjosho and the Kawaguchi Telegraph Station

説明板では、五代は「初代大阪税関長」となっています。

大阪税関発祥の地址説明板
以前の説明板「大阪税関発祥の地址」※今はありません ex Explanation Board “The Birthplace of Osaka Customs”

その後説明板が新しくなり、現在は4か国語対応になっています。

川口運上所跡説明板
現在の説明板「川口運上所跡(大阪税関発祥の地)」 Explanation Board “The Site of Kawaguchi Unjosho “

ここは跡地にビルなどが建っていないので、街中の他の場所と比べると、過ぎ来し方を感じられる気がします。

大阪川口の艀
大阪川口の艀 A Barge, Osaka Kawaguchi

石碑の向かい側に元大阪税関富島出張所があります。平成20年6月に廃止されましたが、 建物はそのまま残っています。

大阪税関富島出張所の建物
大阪税関富島出張所の建物(2008年廃止) Osaka Tomishima Customs (Abolished in 2008)

大阪税関富島出張所

大阪税関発祥の地跡説明板
富島出張所前にあった説明板「大阪税関発祥の地跡」※今はありません ex Explanation Board “The Birthplace of Osaka Customs”

ところで、外務局時代の五代の上司伊達宗城、同僚の西園寺雪江、部下の土居通夫は、すべて宇和島藩出身でした。藩主であった伊達宗城は大変に開明的で、五代友厚が長崎にいた頃からつながりがあったようです。

財部實行が、慶応元年(1865年)、五代らとともに欧州へ渡航した際の回顧談には、香港で「時計屋に入りまして五代は金時計を購はれ小児心にほしく、されは宇和島の殿様御用品との事」、またマルタ島では「或る店にて五代が立派の珊瑚の簪を購われましたが、価格は弐百五拾弗て、聞きますと是は宇和島公の御姫様の御用品との事」とあります。

<住所>
大阪西町奉行所跡、現マイドームおおさか:大阪市中央区本町橋2-5
大阪商工会議所:大阪市中央区本町橋2-8
大阪開港の地跡、大阪税関発祥の地:大阪市西区川口2丁目9-20

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五代友厚 大阪へ(2)
Godai Tomoatsu, To Osaka (2)

阪府外国事務日誌神戸、堺、京都で相次いだ攘夷事件対処のため、外国事務局は当初大阪におかれた。外国事務総督伊達宗城は、慶応4年2月3日(1868年2月25日)より旧西町奉行所で執務を開始、3月7日には旧東町奉行所に移る。

一方、安治川と木津川が交わる大阪川口に運上所をおくことが決まり、五代友厚は陸奥陽之助ともに準備に奔走する。5月より大阪の外交事務及び関税事務いっさいはここで取り扱うこととなった。

閏4月21日に外国事務局は外国官と改められ、五代は5月4日付で外国官権判事(ごんのはんじ)になる。このとき同僚であった陸奥陽之助が会計官権判事に転じたため、西園寺雪江が後任に就いた。後に第七代大阪商業会議所会頭となる土居通夫も、この頃五代の部下として運上所に勤務している。

五代は5月24日に大阪府権判事兼勤、6月5日には大阪府権判事を本官とし外国官権判事を兼勤とする辞令が下りた。これは、旧西町奉行所にあった大阪府庁が6月2日に旧東町奉行所に移り、旧東町奉行所にあった外国局が6月29日京都に移ったことと関係するだろう。

大阪は7月15日をもって開市から開港となった。川口運上所のすぐ東側を外国人居留地と定め、その造成や競売を五代が采配した。競売は7月29日に行われたが、大阪居留地は神戸居留地のおよそ倍の値がつき、当初外国人が大阪により多くの望みを持っていたことがうかがえる。

しかし、川口は底浅く幅狭く港としては不適で、大型の外国船は沖合での碇泊を余儀なくされた。そのため五代は港の浚渫を企図し、毎日3,000人の人夫を使って碇泊所を造る。おおむね完了した12月24日に川口運上所を大阪外国事務局と改称し、碇泊所に関税事務を扱う大阪運上所を設けた。

なお、9月15日に五代は大阪府判事に昇進している。

Godai Tomoatsu was appointed to the responsible position of the Osaka Kawaguchi Unjosho (a delivery office at a harbour), which was established in May, 1868.  He dealt with all the foreign affairs in Osaka including customs, rulemaking and the development of foreign settlement.

<参考文献>
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』 1974年
堀田暁生・西口忠編『大阪川口居留地の研究』1995年
三上昭美「外務省設置の経緯-わが国外政機構の歴史的研究 (1)-」『国際政治 (26)』1964年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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五代友厚 大阪へ(1)
Godai Tomoatsu, To Osaka (1)

明治元年外国官関係略歴録
明治元年外国官関係略歴録(国立国会図書館デジタルコレクション) Foreign Affairs Office Biographical Record, 1868

五代友厚は、慶応4年1月13日(1868年2月6日)、太政官達及び薩摩藩通達により「外国談判の儀に付」大阪行きを命じられた。

これより先、五代は慶応3年12月28日(1868年1月22日)兵庫に着船していたが、明けて慶応4年1月3日(1868年1月26日)に鳥羽伏見の戦が始まったため、そのまま兵庫に留まざるを得ない状況となっていた。そして、1月11日に神戸事件が起こる。備前藩重臣が三宮神社付近を通過するにあたり、外国人兵がその行列を横切ったため、銃撃戦となったものである。五代が大阪に呼ばれたのはこの対応のためであった。

続いて2月15日には、堺の警備にあたっていた土佐藩士がフランス兵11人を殺傷する事件が起きた。五代はこの堺事件の調停にも奔走した。堺事件が、加害者の割腹により一応の収拾をみたのもつかの間、2月晦日には、京都で英公使パークス襲撃事件が起きる。この日は、京都において各国公使の参内が予定されていた。五代は小松帯刀とともに仏公使ロッシュの護衛を担当していたが、即座に変事の対応にあたり、各国公使の慰留に努めるなどして、謁見は3月3日に無事終了した。

これら国際事件に対応するため、慶応4年1月17日(1868年2月10日)に外国事務科が設けられ、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)ら事務総督4名及び事務掛2名が任命された。五代は、1月23日に徴士参与兼外国事務掛を仰せ付けられている。さらに、2月3日の三職八局の制発令にともない、五代は2月20日付で徴士参与職外国事務局判事となった。

Godai Tomoatsu was transferred to Osaka to serve as an officer of foreign affairs office under the new Meiji government.  He played an active part in resolving diplomatic issues occurred in Kobe, Sakai and Kyoto in 1868.

<参考文献>
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』 1974年
三上昭美「外務省設置の経緯-わが国外政機構の歴史的研究 (1)-」『国際政治 (26)』1964年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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