五代友厚 川口居留地(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Kawaguchi Foreign Settlement (Footprints)

五代友厚が、外国官として事務を担っていた川口運上所と川口居留地のあった場所を歩きました。大阪市西区の安治川と木津川が分岐する辺りが川口です。

I visited the Kawaguchi Unjosho and Foreign Settlement area where Godai Tomoatsu worked as an officer of Foreign Affairs Office.  Several monuments associated with the Osaka Port of Meiji era can be found in Kawaguchi.

「大阪開港の地」のほかに「大阪電信発祥の地」と「明治天皇聖躅」、さらに説明板が2つ、計5つの石碑と説明板がずらりと並んでいます。

川口運上所跡にある石碑と説明板
川口運上所跡にある石碑と説明板 Stone Monuments and Explanation Boards at the Site of Kawaguchi Unjosho

大阪の電信は、神戸との間で明治3年(1870年)に開通しました。東京・横浜間は、前年の明治2年(1869年)に開通しています。政府による電信架設を推進したのは、五代友厚とともに欧州に渡航した寺島宗則でした。寺島と五代は国益と公共性とを考え、国営で設置することを強く主張しました。

大阪電信発祥の地碑
大阪電信発祥の地碑 The First Telegraph Station in Osaka

明治天皇は、明治5年5月28日(1872年7月3日)に天保山に到着、運貨丸にて川口運上所波止場に上陸、京都を巡幸された後大阪に戻り、造幣寮や大阪府庁などを巡覧されたということです。

明治天皇聖躅碑(川口運上所跡)
明治天皇聖躅碑(川口運上所跡)The Monument of Royal Visit (The ex Kawaguchi Unjosho)

運上所の南側、旧大阪税関富島出張所の向かいに富島天主堂跡の碑があります。

富島天主堂跡
富島天主堂跡 The Monument of Tomishima Catholic Church
富島天主堂跡裏
富島天主堂跡 The Monument of Tomishima Catholic Church, Backside

建物はまったく残っていませんが、聖マリア幼稚園の一角にあり、キリスト教に関係した地であることが想像できます。

川口聖マリア幼稚園
川口聖マリア幼稚園 St.Maria Kindergarten in Kawaguchi

すぐ横には「外人雑居地の跡」という説明板も立っています。

外人雑居地の跡
外人雑居地の跡 The Mixed Residential Quarter

このフランス系礼拝堂は、「本格的な赤レンガ造りのゴシック洋式の建物」だったとのこと。碑のそばに残っている煉瓦は当時のものかもしれません。

富島天主堂跡に残るレンガ
富島天主堂跡に残るレンガ Bricks left at the Tomishima Church Site
 富島天主堂は、明治12年(1879年)の完成でしたので、五代が運上所に勤務していたころにはまだありませんでしたが、川向こうの江之子島に建てられた大阪府庁とともに、当時大阪の二大建築と呼ばれていたそうです。

 

さらに5分ほど歩いたところにある本田小学校の北西角に川口居留地跡の碑と居留地の復元図があります。

川口居留地跡
川口居留地跡 The Monument of Kawaguchi Foreign Settlement

この「碑の位置は雑居地の場所にある」と説明文にあります。西洋式ホテル自由亭があったのもこの近くでしょうか。

川口居留地の復元レリーフ
川口居留地の復元レリーフ The Restored Map of Kawaguchi Foreign Settlement

道路をはさんで隣りに川口基督教会があります。アメリカ系聖公会が明治14年(1881年)に教会を設立し、大正になって現在の礼拝堂を建てました。

川口基督教会
川口基督教会 Kawaguchi Christ Church
川口基督教会
川口基督教会の礎石 Kawaguchi Christ Church constructed in 1919

教会の内部とステンドグラスです。1995年の阪神・淡路大震災では、塔が倒れるなど甚大な被害を受けましたが、多くの援助により無事復元されたということです。

川口基督教会の内部
川口基督教会の内部 Inside of Kawaguchi Christ Church
川口基督教会のステンドグラス
川口基督教会のステンドグラス Stained Glass Windows of Kawaguchi Christ Church
 <住所>

大阪開港の地、大阪電信発祥の地:大阪市西区川口2-9-20
富島天主堂跡:大阪市西区川口3-5-31(聖マリア幼稚園東側)
川口居留地跡:大阪市西区川口1-5-19 (本田小学校北西角)
川口基督教会:大阪市西区川口1-3-8

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五代友厚 川口居留地(2)
Godai Tomoatsu, Kawaguchi Foreign Settlement (2)

大阪外国人居留地之図
大阪外国人居留地之図 The Plan of Osaka Foreign Settlement(阪府外国事務日誌第一号)

川口には、日本人住家での止宿が許されていなかった外国人が一時滞在する施設がなく、また、ときに西洋料理で饗応する必要性も出てきたため、明治2年(1987年)に外国人止宿所の設置が決まり、長崎で西洋料理店を経営していた草野丈吉が司長として任用された。草野丈吉は、長崎時代より五代友厚や当時大阪府知事であった土佐藩の後藤象二郎と昵懇であったと伝えられ、彼らが草野に止宿所の運営を依頼、後押ししたのは間違いないだろう。

草野丈吉は、止宿所を引き受けてしばらく後に、居留地に隣接する雑居地梅本町で西洋式ホテル「自由亭」を開業する。自由亭は、国内外からの賓客の接待に重宝され、大いに繁盛した。草野丈吉は、長崎でも同名の西洋料理店を続けており、また明治10年(1877年)には京都、明治14年(1881年)には大阪中之島にも進出し、大阪商法会議所の新年会もここで開かれていたという。明治19年(1886年)に丈吉が亡くなった後は、娘の草野錦が経営を引き継いだ。

五代の在官中、仏国モンブランから電信の架設、米国領事より鉄道の敷設について願出があったが、五代は「我政府に於て」行うとしてこれらを拒絶する旨回答している。並行して、長崎の小菅修船場の売却や軍艦の買い入れ、造幣寮の機械購入などにも携わっていた。五代は、藩から召し出され政府に登用された徴士であり、明治政府の仕事をしながら、藩士として藩にも仕えなければならない立場にあった。種々力を尽くしたが、新政府と藩の板ばさみになり辛い状況となることもあったに違いない。

Godai Tomoatsu assisted Kusano Jokichi in opening a western-style hotel in Kawaguchi Foreign Settlement.  In addition to diplomacy, Godai was involved in various issues of both the Meiji government and Satsuma Domain.

<参考文献>
大阪市港湾局『大阪港史第一巻』1959年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
堀田暁生・西口忠編『大阪川口居留地の研究』1995年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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五代友厚 川口居留地(1)
Godai Tomoatsu, Kawaguchi Foreign Settlement (1)

大阪川口居留地慶応4年5月(1868年6月)に川口運上所が開設されると、五代友厚は外国官権判事として、開港とともに持ち上がった数々の問題の解決にあたった。

開港に関する諸規則を制定し、貿易上の不正取引や不法行為を取り締まり、居留地や雑居地で生じた諍いを調停するなど、運上所は多事多端であった。五代が各国領事に宛てた書翰には、商取引き上の契約不履行、規則を無視した火薬の持ち込み、指定区域外のおける家屋貸借、場所をわきまえない猟銃の発砲や暴力行為などに対しての抗議文が多数ある。

一方、伊藤博文(当時は俊輔)が掌っていた兵庫運上所は、大阪と比して取り締まりが甘かったため、結果的に大阪の厳しさが際立ち、外国人からは五代に対する怨嗟の声が上がったという。このことについて、伊藤博文らは五代に「一書拝呈いたし候」と忠告書を送っている。しかし、五代は日本の利益を損ない、日本を軽侮するような外国人の振舞いは断固として許さず、敢然たる態度を貫いた。

川口は、水深が浅く良港とは言い難かった上、商いも芳しくなく、また五代の厳格さも多少相まってか、外国船の入港は漸減し、明治4年にはわずか11隻、そして大阪・神戸間の鉄道が開通した翌年には1隻も来なかった。外国商人は大阪に見切りをつけ、続々と神戸に移っていったのである。川口は貿易港としてはふるわなかったが、代わりに宣教師が定住するようになり、富島天主堂が建てられるなど異国情緒あふれる町並みも徐々にできあがっていった。明治4年(1871年)に開業した造幣寮のお雇い外国人などもここに住んでいたという。

Accompanied by the opening of the Osaka Port, a lot of problems occurred around.  Godai Tomoatsu tried to solve these problems as an officer of Foreign Affairs Office at the Kawaguchi Unjosho (a delivery office at a harbor).

<参考文献>
大阪市港湾局『大阪港史第一巻』1959年
五代龍作編『五代友厚伝』1933年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
堀田暁生・西口忠編『大阪川口居留地の研究』1995年

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