
川口運上所が置かれていた川口には、入港してくる船を管理・掌握する船手会所という幕府の役所が江戸時代よりあったが、天保山に台場ができた元治元年(1864年)に廃止されている。川口周辺の安治川や木津川沿いには造船、船具屋、船宿、廻船問屋などが多く並んでいて、長崎の英商トーマス・グラバー(Thomas Glover)が長年連れ添ったツルも寺島で造船業を営む淡路屋安兵衛の娘であったという。グラバーにツルを紹介したのは五代友厚だったと言われている。
寺島の北端には樹齢300年といわれる松の大木があり、ここを松カ鼻と呼んだ。明治2年(1869年)に松カ鼻の少し南に松島遊郭がつくられる。松島の名は松カ鼻の松と寺島の島をあわせたものという。大阪の開市・開港に向け、他の開港地と同じく風紀取り締まりのため居留地近くに遊郭を設けることは江戸時代末期から計画されていたが、実際に建設が始まったのは明治元年で、運上所の役人が任命されてその掛りとなった。竣工前に五代は退官しているが、松島遊郭は明治5年まで外国事務局の管掌下にあった。
松島遊郭の設置は対外国人政策が直接の動機ではあったが、大阪西部の開発とその発展も目論んでいたため、もともと渡しの舟しかなかった小島に松島橋、大渉橋、梅本橋、千代崎橋といった橋が次々と架けられていった。寺島の北側は江之子島で、江之子島と川口は木津川橋で結ばれていた。江之子島には明治7年に二代目大阪府庁舎が造られ、煉瓦造り二階建ての白亜の西洋建築は人の目を引き、「江之子島政府」と呼ばれて名所となった。
<参考文献>
大阪市ホームページ 市政 橋の紹介 http://www.city.osaka.lg.jp/shisei/category/3054-1-2-9-2-2-0-0-0-0.html
宮本又次『五代友厚伝』1980年