五代友厚 大阪天保山(1)
Godai Tomoatsu, Osaka Tenpozan (1)

摂洲阿治川口天保山
摂洲阿治川口天保山(葛飾北斎) Sesshu Ajigawa-guchi Tenpozan, Katsushika Hokusai

慶応4年7月15日(1868年9月1日)、兵庫に次いで大阪もいよいよ開港となり、五代友厚は外国官権判事として川口運上所を取り仕切った。大阪港のある安治川口は、淀川から流れ込む土砂で砂州ができやすく、大型の外国船にとって入港は常に危険がともなうものであった。五代は外国貿易発展のため港の改良は不可避であるとし、毎日3,000人の人夫を使って砂を浚い新たな碇泊所を造った。

安治川口はもとより大阪湾から市中に遡るための重要な航路で、開港以前から度々浚渫工事が行われていた。特に天保2年(1831年)の御救大浚は大がかりなもので、その際に出た大量の土砂を河口に積み上げてできた人工山が天保山である。当時の天保山は高さが20メートルほどもあって眺めがよく、桜や松が植えられ茶屋もできて物見遊山の人々で賑わった。しかし、外国船の出現により防備の必要に迫られ、元治元年(1864年)に台場が築造されると景観が一変した。

五代が大阪在勤となって間もない慶応4年3月26日(1868年4月18日)、大阪行幸中の明治天皇が天保山を訪れ、天保山沖に碇泊する各藩の軍艦及び仏艦デュプレックス号(La Dupleix)を親閲している。このときデュプレックス号が祝砲を放ったが、艦長アベル・デュ・プティ=トゥアール(Abel du Petit-Thouars)の日記によれば、前日に五代と会って礼砲のことを取り決めていたという。翌27日には日本側要人10名ほどがデュプレックス号の見学に訪れ、五代も同行している。

明治天皇は明治5年にも巡幸で大阪を訪れているが、その際は天保山沖に着艦、艀艇に乗り換え川口運上所波止場から上陸している。

The Emperor Meiji viewed the Japanese warships and the French corvette Dupleix from Mt. Tenpozan, Osaka in 1868. On the day before, Godai Tomoatsu met the captain Abel du Petit-Thouars to talk about a salute for this Imperial inspection.

<参考文献>
アベル・デュプティ=トゥアール著 森本英夫訳『フランス艦長の見た堺事件』1993年
市立大阪市民博物館編『明治天皇大阪行幸誌』1921年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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