和訳英辞書(薩摩辞書)
大阪初の鉄橋、高麗橋の架橋に協力した本木昌三はもともと長崎の阿蘭陀通詞の出で、 海軍伝習所でも通弁官を務めていた。 五代は本木とここで知り合ったのであろう。その後、 本木は長崎製鉄所の御用掛、 製鉄所の汽船の船長となって海上勤務にも従事した後、 製鉄所頭取となった。しかし、 本木が海軍伝習所時代から生涯を通じて最も情熱を注いだのは活版 事業で、明治2年(1868年)に製鉄所付属の活版伝習所を、 さらに寄付と私財を投じて長崎の新町に私塾と活版所を開いた。
五代は、稀書『二十一史』の復刻を望んでいた小松帯刀のために、 漢学者重野安繹に相談の上、 長崎の大村屋を通じて本木に活字を持参し上阪して欲しい旨手紙を 書いている。そこで、 本木は弟子の酒井正三と小幡正蔵を大阪に送り、 五代の出資を得て明治3年に大手通3丁目の長崎屋宗三郎方に大阪 活版所を開設した。
それより先、『英和対訳袖珍辞書』の第三版にあたる通称『 薩摩辞書』が上海で印刷されていて、 五代は小松帯刀に頼まれその売り捌きに尽力している。 五代はこの辞書を堀孝之に委ねてさらに増補改訂し大阪活版所で印 刷しようとしたが、うまくいかず、 結局この版も上海で印刷することになった。
日本の活版業に隆盛の機運が訪れるのは明治6年頃で、 本木はそれを見届けるように明治8年に亡くなった。五代は、 租界が形成された上海やヨーロッパでの見聞もあってか、 書物や新聞など印刷物の持つ力に期待するところが大きく、 新聞事業をはじめ、 明治11年に設立した大阪商法会議所内にも印刷局を設けるなど、 印刷・出版には積極的に関わり続けた。
Godai Tomoatsu funded Motoki Shozo to establish a new printing house in Osaka and the factory opened in 1870 at Otemae street. While Motoki Shozo was an excellent Dutch interpreter, he devoted his life to developing the typographical printing in Japan.
<参考文献>
重藤威夫『長崎居留地』1968年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年
宮本又次『五代友厚伝』1980年
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