
五代友厚は、慶応4年1月23日(1868年2月16日)付で徴士参与職・外国事務局判事として大阪在勤となり、慶応4年9月1日(1868年7月15日)に開港した大阪の川口運上所や外国人居留地の運営を軌道に乗せるべく奔走した。それまでの10年近くを五代は長崎で過ごしたが、横浜、神戸、大阪と開港地が増えるにつれ西洋との唯一の貿易窓口であった長崎もその特権を失い、商機を求めて長崎から大阪や神戸に出てくる者も増えた。五代が長崎時代の人脈で大阪に呼び寄せた人物も多い。
長崎では慶応4年に日本初の鉄橋が架けられた。銕橋(くろがねばし)と呼ばれたこの橋は、当時長崎製鉄所頭取であった本木昌造が指揮し架橋したものである。五代は大阪において、将来の橋はすべて鉄橋に改良すべしと建言し、大阪府知事の後藤象二郎がこれを容れて、洪水で流出した高麗橋を鉄橋に架け替えることが決まった。高麗橋は江戸時代に幕府が管理した公儀橋のひとつで、東詰は里程の起点、西詰には幕府の高札が立つ公儀橋の中でも特に重要な橋であった。
高麗橋の建造は本木昌造に一任され、イギリスから橋材を輸入するため大阪府営繕方は明治元年(1868年)にオルト商会(Alt&Co.)と契約を結ぶ。五代の斡旋によるものという。明治3年(1870年)に竣工した高麗橋もくろがね橋と呼ばれ、大阪初の鉄橋として大いに評判になった。しかし、寸法が間違っていたため突堤を築いて架けたというエピソードも残っていて、余程高くついたのか、明治4年になって英国代理公使がオルト商会の訴えで大阪府に代金の不足分を請求している。
While Godai Tomoatsun started his work in Osaka in 1868, he was involved in building an iron bridge called Korai-bashi, which became the first iron bridge in Osaka.
<参考文献>
重藤威夫『長崎居留地』1968年
宮本又次『五代友厚伝』1980年
大阪市史編纂所『明治前期大阪編年史綱文データベース』
http://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=883