
五代友厚は、慶応3年(1867年)の末に兵庫に到り、そのまま大阪で官職に就いた。故に小菅修船場の完成を直に見ることはできず、代わりに長崎から逐次報告を受けている。
慶応4年7月17日(1868年9月3日)の岩瀬公圃からの書簡では「修船場追々成功の期限押移、今三ヶ月も相掛り候ハゞ、皆出来の見込ニ御座候」として、工事が順調に進んでいることが伝えられる。岩瀬公圃はもともと阿蘭陀通詞で、五代とは海軍伝習所時代から交友があった。長崎製鉄所の設立にも関係していたため、五代の信頼を得て修船場の管理監督を任されていた。後年は五代が設立した弘成館東京出張所の主任理事となる。
修船場は明治元年末に落成し、12月6日(1869年1月18日)から7日にかけて船の初引き揚げが行われた。見学に訪れた当時長崎裁判所判事で薩摩藩出身の野村宗七は「其蒸気力の感心ナルコト筆上の得て尽スベカラズ、西洋人老若男女見物夥しく、旗章数百檣上に立ならべ、我国旗も三ツ程立テヽ甚壮観也」と五代に書き送っている。
小菅修船場は建設途上から政府買い上げの話が出ていて、野村の見学はその偵察と言えなくもない。堀孝之の明治2年3月15日(1869年4月26日)付書簡に「修船場の義、追々御策の通被相行、代価拾弍万ドルに相決し・・・恐悦の到り、御安堵の御事」とあるので、落成からわずか3ヶ月で五代らの手を離れたことになる。堀孝之は通詞として五代とともに渡欧した人物で、後に大阪の弘成館主任理事に配されている。
新政府が買収した小菅修船場は長崎製鉄所の管轄となった。長崎製鉄所は、海軍伝習所総督永井尚志がその必要性を説いて安政4年(1857年)に着工させ、文久元年(1861年)に完成したものである。明治初年には本木昌造が製鉄所頭取をつとめていた。明治20年に三菱の所有となる。
Kosuge Repair Dock was conpleted in December 1869 and was sold to the government 3 months after. Godai Tomoatsu who was in Osaka, was receiving the reports about the Dock on a regular basis from his reliable subordinates in Nagasaki.
<参考文献>
楠本寿一『長崎製鉄所』1992年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年
宮本又次『五代友厚伝』1980年