
五代友厚は慶応元年(1965年)から慶応2年にかけての滞欧中、シャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)と修船機関を含む洋式機械の輸入等に関する契約を結ぶ。契約書には「我朝の蒸汽船三十五、六艘ありと雖も、一ヶ所の修船場なき故」とあり、各藩の中で最も多い艦船を所有していた薩摩藩にとって修船場の建設は逼迫した問題となっていた。
薩摩藩は、五代がヨーロッパを廻っていた慶応元年にはすでに御用商人山田屋宗次郎、倉橋屋良介の名義で修船場の建設を長崎奉行所へ申請している。慶応2年、五代が帰国してまもなくその許可が下り、同時に薩摩藩は大阪の鴻池屋などに建設資金の融資を要請している。もっとも資金の大部分は結果的に英商人トーマス・グラバー(Thomas Glover)が拠出するところとなった。
小菅修船場で採用されたのはパテント・スリップ(Patent Slip)という方式で、海底から陸上へレールを斜面に敷設し、ソロバン状の滑台をおいて、蒸気機関の捲上機により船を引き上げるものである。その形状から日本ではソロバン・ドックの名で親しまれた。小菅修船場のスリップ・ドックは世界的にみても比較的大規模かつ高性能な施設で、また、小菅の入江はこのドックのためにあったかと思えるほど天然の地形をうまく使っている。
引揚げ装置やレールの設備はアバディーン(Aberdeen)のホール・ラッセル社(Hall, Russell & Co.)が製造した。慶応3年4月からグラバーはイギリスに一時帰国しており、機械の発注もこのとき行われたと考えられる。入れ違いで同年10月にモンブランが来日しているが、修船場の建設にどれほど関わったかは定かではない。実質的にこの修船場の建設は五代と小松帯刀が立ち上げ、五代の腹心である岩瀬公圃が現場を指揮した。
Godai Tomoatsu and Komatsu Tatewaki from the Satsuma Domain launched the construction of a new repair dock in Kosuge, Nagasaki in 1866. The Satsuma Domain accepted an investment from Thomas Glover, who imported machinery and equipment from Aberdeen for this project.
<参考文献>
杉山伸也『明治維新とイギリス商人 −トマス・グラバーの生涯−』1993年
水田丞『幕末明治初期の洋式産業施設とグラバー商会』2017年
宮本又次『五代友厚伝』1980年