
トーマス・グラバー(Thomas Glover)は、長崎で汽船や帆船の売買、仲介をなし、文久2年(1862年)には汽船購入の藩命を帯びた五代友厚と上海に渡っている。各藩から受注した船の建造を故郷アバディーンの造船会社に依頼し日本で売却もした。
五代は元治2年(1865年)に薩摩藩留学生を率いて渡欧するが、この欧行は計画から実行に至るまでグラバーに負うところが大きい。帰国した五代は小松帯刀と小菅修船場の建設に取りかかり、グラバーはこれに出資してそれなりの利益をあげたようだ。グラバーはこの頃高島炭坑の開発にも乗り出している。
慶応4年(1868年)に神戸、大阪が開港すると、グラバー商会は神戸と大阪の居留地にも支社をおいて商売の手を広げた。大阪の造幣寮創設時に五代らの依頼で造幣機械の輸入も請け負ったが、このときは手数料を上乗せしなかったので儲けはなかったと言っている。
五代の書簡中「太守公御面話、通詞なしニて、ガラバ和語を以御咄為申上由」と書いたものがあるから、グラバーが日本語を話していたことがわかる。また、大北電信会社(Det Store Nordiske Telegraf-Selskab A/S)のフレデリック・コルヴィ(Frederik Kolvig)は、グラバーと大阪の造幣局を訪れた際、グラバーが「非常に好かれていて、みんなからびっくりするほど丁寧な挨拶をされ、丁寧な口の利き方をされていた」ことに驚いている。
グラバーはツルという女性と生涯連れ添ったが、その仲は五代がとりなしたとも言われている。グラバーの息子、倉場富三郎はホーム・リンガー商会(Holme Ringer & Co.)に入社し、後に長崎汽船漁業会社を設立して日本初のトロール漁法を導入した。
Thomas Glover helped Godai Tomoatsu purchase ships and arms, build Japan’s first western-style dry dock and import a coining machine for the mint newly built in Osaka. He also involved in sending 19 samurais from Satsuma, including Godai, to Europe in 1865.
<参考文献>
重藤威夫『長崎居留地』1968年
長島要一『大北電信の若き通信士―フレデリック・コルヴィの長崎滞在記』2013年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
宮本又次『五代友厚伝』1980年