
長崎にはもともと出島と唐人屋敷という広義に解するところの居留地が存在していたが、安政6年(1859年)の開港にともない新たな居留地を造成することになった。もっとも安政4年には新居留地計画ができていて、肥前国のものであった大浦海岸一帯は公領地としてすでに上知されていた。長崎の町は平地が少なく人家が密集していたため、海岸を埋め立てて造成するほかなかったのである。
埋め立ては当初長崎会所が受け持つ予定であったが財政が厳しく、結局町人から希望者を募って請け負わせ、完成後に地代で償還する方法をとった。実際に工事を請け負ったのは天草赤崎村庄屋小野織部と長崎の豪商小曾根六左衛門で、大浦、下り松、浪の平、梅香崎を順に埋め立て、これに丘陵地を加えた約十万坪の居留地がほぼ完成したのは文久3年(1863年)であった。
文久3年といえば薩英戦争の勃発した年で、五代友厚は捕虜となり、解放された後しばらく潜伏生活を余儀なくされた。このとき長崎にあってグラバー邸に隠れていた時期もあったという。薩英戦争でイギリスの実力を知り、グラバーからたえず新しい情報を得ていた五代は、欧米へ留学生を派遣する必要を痛感し上申書を提出した。元治2年(1865年)の薩摩藩留学生の渡欧はそれが受け入れられて実現したものである。
帰国後、五代は再び長崎に戻り、ヨーロッパであたためてきた構想を実現すべく比義(ベルギー)商社のことやパリ万博への出品、小銃の売捌き、また買い求めてきた製糖機械、紡績機械のことなどに奔走した。内外を飛び回り、将来の礎を築いた長崎時代は、五代の人生の中でもっともめまぐるしく動いた変転のときであったといえよう。
When the port of Nagasaki was opened to foreign countries in 1859, the new foreign settlement began to be developed along the Oura Coast. Godai Tomoatsu often visited the Scottish merchant Thomas Glover’s house that was in the Nagasaki foreign settlement around that time.
<参考文献>
重藤威夫『長崎居留地』1968年
宮本又次『五代友厚伝』1980年