
徳川幕府が17世紀半ばに日本人の海外渡航を禁じ、外国貿易の権限を制限して以来、長崎は中国及びオランダと交易を行える唯一の窓口となった。この間、オランダ人は出島に、中国人は十善寺郷につくられた唐人屋敷にのみ居住を許された。
200余年の鎖国を経て、嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリー(Matthew Perry)が黒船に乗って来航すると、翌年日米和親条約が結ばれ、日本は下田と箱館の2港を開港した。安政6年(1859年)に下田は閉港になったが、一方新たに横浜と長崎を開港し、長崎には中国とオランダ以外の船も入港するようになった。
従来貿易事務一切は長崎奉行監督の長崎会所が扱っていたが、安政6年の開港にともない湊会所が新たに設置された。文久3年(1863年)に湊会所は運上所と改称され、明治5年(1872年)に長崎税関となる。
海軍伝習所の伝習生として安政4年(1857年)に来崎した五代友厚は、薩摩藩主島津斉彬の逝去で一時帰国していたが、長崎開港の年に藩命により再び長崎に遊学。文久2年(1862年)より長崎において御船奉行副役となった。長崎で外国人と交わり、さらに上海、欧州に渡航するなどした五代はより熱心な開国論者へと傾いていく。
長崎時代に、五代は生涯の益友となる堀孝之、岩瀬公圃、永見伝三郎、永見米吉郎らと出会う。また、文久3年に徳永広子とのあいだに治子という子をもうけるが、五代家の家籍には入らなかった。
The port of Nagasaki was opened to foreign countries in 1859. Godai Tomoatsu first came to Nagasaki in 1857 and continued to stay there for about 10 years intermittently. In Nagasaki, he interacted with various people either from Japan and abroad and became an advocator of the opening of the country.
<参考文献>
重藤威夫『長崎居留地』1968年
宮本又次『五代友厚伝』1980年