五代友厚 長崎海軍伝習所(2)
Godai Tomoatsu, Nagasaki Naval Training Centre (2)

観光丸
観光丸 The Soembing

安政2年12月(1856年1月)、長崎海軍伝習所の開所と同時に日蘭和親条約が結ばれ、オランダ人は自由に長崎の町を歩けるようになった。安政5年7月(1858年8月)に日蘭修好通商条約が締結されてからは日本人も出島に出入りできるようになり、熱心な伝習生はオランダ人教師団の宿所があった出島に自ら出向いて補習を受けたという。

伝習のために使われた最初の実習船は、オランダから献呈されたスムービング号(Soembing)で日本名を観光丸といった。その後、幕府がオランダに注文していたヤパン号(Japan)をホイセン・ファン・カッテンディーケ(Huyssen van Kattendyke)が長崎まで回航し、咸臨丸(かんりんまる)と改名されて新たな練習船となった。咸臨丸は万延元年(1860年)に太平洋を横断してサンフランシスコまでの練習航海を行なっている。

伝習生は海上で蒸気船の運用術や機関術を身につけると同時に、教習所で航海術、測量、数学などの諸科学を学んだ。教習所がおかれた長崎奉行所西役所は、そのすぐ西側が港、南側の橋の向こうは出島という立地である。伝習所総督永井尚志はここに居住し、伝習生たちの宿舎も用意されたが、宿舎はおそらく幕府から派遣された正規生のためのものであろう。聴講生は各藩屋敷などに起居していたようだ。

海軍伝習所の授業はオランダ語で行われたため幾人もの通訳が集められ、その中に岩瀬公圃や本木昌造がいた。五代友厚は後に岩瀬公圃と小菅修船場や弘成館の仕事をともにし、本木昌造とは大阪活版所をおこす。医学伝習生松本良順とも出会い、五代が薩英戦争で捕虜になり東京に潜伏したとき世話になる。

藩主島津斉彬の逝去にともない、五代は安政5年10月(1858年11月)に帰国を命じられ、いったん鹿児島へ戻った。安政4年2月から約1年9ヶ月の長崎滞在であった。

Godai Tomoatsu studied at the Nagasaki Naval Training Centre from 1857 to 1858, under the instruction of Pels Rycken and Huyssen van Kattendyke who were the Dutch Navy officers.

<参考図書>
カッテンディーケ著 水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』1964年
宮本又次 『五代友厚伝』 1980年
藤井哲博『長崎海軍伝習所』1991年

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