
外国公使の明治天皇謁見が慶応4年2月30日(1868年3月23日)に決まった。謁見については1月の神戸事件の頃より相談がなされ、英仏蘭米伊独6ヶ国に打診した結果、英仏蘭の3ヶ国が京都に参内する運びとなった。
外国事務局判事の五代友厚は、2月26日に上京するよう命じられ、28日伏見でフランス公使レオン・ロッシュ(Léon Roches)ら一行を出迎える。仏艦デュプレックス号(La Dupleix)の士官パリ(Pâris)の報告書には、伏見では「薩摩の殿様・・・の所有する大邸宅」において「五代氏が薩摩を代表してわれわれを手厚く」もてなしたとある。一行は伏見で一泊した後、29日に騎馬で京都の相国寺に移動した。
相国寺は御所の北側に位置し、一角を薩摩藩が借り上げ藩邸を構えていた。パリによれば、その屋敷は「高い塀に囲まれた小さな町というべき代物で・・・使用人や兵士が何百人と住んで」いた。相国寺で一行を出迎えたのは仏人シャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)であった。薩摩候から挨拶を受け、夕食時には要人が次々訪れたという。
一方、オランダ公使ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック(Dirk de Graeff van Polsbroek)は、第一書記官ともに2月27日(1868年3月20日)に京都入りし、加賀藩護衛のもと南禅寺に宿泊する。イギリス公使ハリー・パークス(Harry Parkes)は、書記官アルジャーノン・ミットフォード(Algernon Mitford)、通訳官アーネスト・サトウ(Ernest Satow)ほか自国の軍隊をも引き連れ、2月28日京都東山の知恩院に入った。英公使一行の護衛は、尾張、熊本、阿波が受け持った。
The diplomatic envoys from France, Britain and Holland were granted audiences with the Emperor Meiji on 23rd March 1868. Godai Tomoatsu who was an officer of Foreign Affairs Office attended the French diplomat Léon Roches and his suite during their stay in Kyoto.
<参考文献>
アベル・デュプティ=トゥアール著 森本英夫訳『フランス艦長の見た堺事件』1993年
宇和島伊達文化保存会監修『伊達宗城公御日記 慶応元辰二月末より四月迠在京阪』2015年
ヘルマン・ムースハルト編著 生熊文訳『ポルスブルック日本報告』1995年