五代友厚 堺紡績所と高師浜(1)
Godai Tomoatsu, Sakai Spinning Mill & Takashinohama (1)

戎嶋紡績所絵図
戎嶋紡績所絵図 Sakai-Ebisujima Spinning Mill

明治3年(1870年)、薩摩藩は堺の戎島に紡績所を建設する。地所買入から機械据付まですべてを取り仕切ったのは薩摩藩士石河確太郎だった。薩摩藩は五代友厚に堺紡績掛として売捌方を命じた。

薩摩藩は慶応3年(1867年)に鹿児島の磯の浜に日本初の洋式紡績工場を造ったが、ここに設置された機械は五代らがイギリスで購入したプラット・ブラザーズ社(Platt Bros. & Co.)のものである。石川確太郎は五代らの渡欧に先立ち人選や留学先を進言しており、機械購入についても事前に協議していたと思われる。

石川は堺に紡績工場を造ることを早くから考えていたようで、文久3年(1863年)に薩摩藩に提出した建白書にはすでにその計画の一端が垣間見える。石川はもともと大和国(奈良)の出だが、蘭学の知識を見込まれて安政3年(1856年)薩摩藩に召し抱えられた。摂津・河内が良質の綿の産地であったこと、商都大阪に近いことから、石河は堺を適地と判断したようだ。

明治2年9月25日(1869年10月29日)、堺紡績所の上棟式が盛大に行われた。五代は紀伊國屋九里正三郎を伴って出席したという。九里は紀伊国(和歌山)出身の大阪の両替商で、大阪南部の今宮村に別荘を持っていた。五代は当時この別荘を借りて金銀分析所を立ち上げている。五代と石川の書簡には度々「紀正」の名が出てくる。九里正三郎は紡績所においても何らかの資金援助をしていたとみられる。

明治4年、五代は当時の工部大輔後藤象二郎に宛てて、佐土原藩の紡績機械とあわせて堺紡績所の政府買い上げを請願している。業績不振に廃藩置県も重なり、明治5年堺紡績所は官営となった。石河は政府に出仕し、引き続き紡績所に関わる。明治10年には明治天皇も視察に訪れている。

The Shimazu Clan established the Sakai Cotton Mill near Osaka.  Ishikawa Kakutaro was its chief executive and Godai Tomoatsu helped him in sales of finished products.

<参考文献>
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
絹川太一『本邦綿糸紡績史 第1巻』1937年
長谷川洋史「薩摩藩留学生イギリス派遣に関する石川確太郎上申書の解析」『日本経大論集第43巻第2号』2014年

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