
慶応4年2月15日(1868年3月8日)の堺事件で土佐藩士による銃撃や溺没により死亡したフランス兵は、士官1人を含む11人であった。
2月16日に堺で仏人行方不明者の捜索をした五代友厚は明け方大阪に戻り、17日は大阪に碇泊していた仏艦ヴェニュス号(La Vénus)を小松帯刀とともに訪れ、遅れてやってきた2人の外国事務総督東久世通禧および伊達宗城とともに、フランス側に今回の暴挙を詫びる。伊達宗城公家日記には、伊達が11時に仏艦を訪れた際「小松五代前に参居食事中也更二是迄と不違」とある。国同士の激しい政治的やり取りとは別に、外交官同士の人間的なつながりもあったのだろう。
五代はそのまま残ってフランス人と一緒に埋葬準備のため兵庫(神戸)へ向かう。18日に埋葬が済むと大阪に戻り、19日から22日にかけ加害者の処罰、被害者家族への賠償、土佐藩主の謝罪についてフランス及びその他各国との折衝があった。そして、堺の妙国寺で加害者20人の処刑が行われることが決まる。
2月23日(3月16日)、五代はデュプレックス号(La Dupleix)の艦長アベル・デュ・プティ=トゥアール(Abel du Petit-Thouars)を初めとする20人ほどのフランス人を妙国寺に案内した。割腹は午後4時から始まったが、11人目が終ったところでトゥアールは五代を呼び、処刑の中止を申し出た。トゥアールは五代を伴ってヴェニュス号で待機していた仏公使レオン・ロッシュ(Léon Roches)のところへ行き、残る9人の処遇について裁可を仰ぐ。
午前3時に伊達宗城は仏公使から書簡を受け取り、処刑が11人目で取り止めになったことを知る。ほどなく五代が帰阪し伊達に委細を報告している。この時の外国事務関係者は、夜を日につぐ働きで神戸事件、堺事件の解決に尽くした。
土佐藩士11名は、妙国寺隣りの宝珠院に葬られた。
Eleven Samurais of the Tosa Clan committed suicide by “seppuku” at the Myokokuji Temple of Sakai, in order to take responsibility for the deaths of eleven french sailors. Godai Tomoatsu witnessed the “seppuku” with the captain of french corvette Dupleix, Abel du Petit-Thouars.
<参考文献>
アベル・デュプティ=トゥアール著 森本英夫訳『フランス艦長の見た堺事件』1993年
宇和島伊達文化保存会監修『伊達宗城公御日記 慶応三四月より明治元二月初旬』2015年