五代友厚 神戸事件(2)
Godai Tomoatsu, The Kobe Incident (2)

瀧善三郎の切腹
瀧善三郎の切腹 Taki Zenzaburo’s Seppuku(30 Mai 1868, L’Illustration)

慶応4年1月15日(1868年2月8日)、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は、王政復古を通告する国書を六国代表に伝達し、新政府の開国和親方針を表明した。慶応3年12月9日に王政復古大号令が発せられていたが、新体制の樹立について諸外国に正式に布告したのはこのときが初めてである。その際、神戸事件における日本側の責任を認め、備前藩指揮官の処罰を約束し、今後の外国人の安全を保証したことことにより、神戸居留地を占拠していた外国兵は撤退、抑留されていた諸藩の船も返還された。以降、神戸居留地の警護は薩長両藩が担う。一連の対応のため、新政府は1月22日に兵庫鎮台を旧兵庫勤番所に設置、2月2日に兵庫鎮台を兵庫裁判所と改め、東久世通禧を兵庫裁判所総督に任命している。

伊藤博文と五代友厚は、双方死者がなかったこともあり、穏便に事を解決すべく力を尽くすが、六国代表は強行な姿勢を崩さず、十分な釈明がなければ交戦も辞さないと通告してきた。そのため備前藩は、隊を率いていた日置帯刀(ひきたてわき)の謹慎と発砲を命令した指揮官の兵庫送致を受け入れざるを得なかった。慶応4年2月7日(1868年2月29日)付け伊達宗城(だてむねなり)の日記には、「今晩備前家来ヨリ名元附出ス 日置帯刀家来 馬廻り士 百石 瀧善三郎 五代餘程骨折候也」とある。五代と伊藤は直前まで助命のため奔走し続けたがその目的は達せられず、瀧善三郎は2月9日に外国側立ち会いのもと、全責任を負うかたちで兵庫の永福寺において切腹した。

Godai Tomoatsu and Ito Hirobumi struggled to resolve the issue but it ended with death of a samurai from Bizen Clan, Taki Zenzaburo who took full responsibility for the Kobe Incident and committed seppuku at the Eifuku Temple, Hyogo.

<参考文献>
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
日本史籍協会編『伊達宗城在京日記』1916年
村田誠治『神戸開港三十年史 上巻』1898年

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