五代友厚 兵庫(2)
Godai Tomoatsu, Hyogo (2)

阿波沖海戦
阿波沖海戦 The Battle of Awa

五代友厚が兵庫に到着して数日後、兵庫沖で幕艦が薩船に大砲を放ち、鳥羽街道と伏見では幕軍と薩長軍が戦闘状態になった。五代は潜伏していた開聞丸から、汾陽(かわみなみ)次郎右衛門、市来六左衛門、野村宗七に宛て、慶応4年1月6日(1868年1月30日)付で、江戸薩摩藩邸の焼討や大阪薩摩屋敷の焼失、阿波沖海戦、鳥羽・伏見の様子などを仔細に報告している。

外国人公使らとのやり取りにもふれ、1月1日には英国岡士代ラウダ(John Frederic Lowder)方で江戸の様子を知り、2日夜はラウダとウユートソンが訪ねて来たと言っている。3日にモンブラン(Charles de Montblanc)をラウダへ託し、小豆屋へは戻らず開聞丸に潜伏。4日、英艦潜伏を検討、ボートイム(Albertus Johannes Bauduin)との面会を模索、書状はガラバ(Thomas Glover)に頼めば届くとある。5日には、ボートイムから聞いたという話を伝えている。

手紙に出てくる外国人と五代は長崎で出会っている。手紙の受取人3名も長崎在勤の薩摩藩士だった。彼らにとって、外国人との交流は日常茶飯だったと思われるが、攘夷意識の強い藩士がもしこの手紙を見たら、心中穏やかではいられなかったかもしれない。

五代は「港内三里余の内にては・・・放発致候儀不相成万国公法にて」と言って、これ以上の砲撃を交えることは望んでいなかったようだ。兵庫・神戸港は慶応3年12月7日(1868年1月1日)に開港しており、そのとき集まった外国艦船がなお碇泊中であったから、それらを巻き込んでの争いは避けねばならないという思いがあっただろう。

On 30th January, 1868, Godai Tomoatsu who was on the ship “Kaimon-maru” wrote a letter to three Satsuma Samurais in Nagasaki in order to report the details of the naval battle occurred off the coast of Hyogo and Kobe.

<参考文献>
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
村田誠治編『神戸開港三十年史 上巻』1898年

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