五代友厚 兵庫(1)
Godai Tomoatsu, Hyogo (1)

兵庫神戸両港全圖
兵庫神戸両港全圖 Map of Hyogo and Kobe ports, 1880

新納久脩と五代友厚は、慶応元年(1865年)の滞欧中に、シャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)と薩摩=ベルギー合弁事業設立の条約を交わし、パリ万国博覧会への出品も決めて、その手配をモンブランに委ねていた。万博参加のため岩下方平を正使とする薩摩藩使節団一行がフランスに向け出帆したのは慶応2年11月10日(1866年12月16日)で、薩摩藩の在仏留学生朝倉盛明や中村博愛も現地で合流した。

パリ万博には幕府と佐賀藩も出品していて、陳列名義のことなどで薩摩と幕府のあいだには一悶着あったようだ。しかし、概ねその目的を果たした薩摩藩一行は、モンブランと仏人鉱山技師等数名をともない、上海、長崎を経由して慶応3年11月鹿児島に帰着。五代は上海まで彼らを迎えに行っている。

このころ薩摩藩は親英に傾きつつあり、財政にも余裕がなく、モンブランの来日は歓迎されざるものとなっていた。モンブランに対する不信の声もあったから、五代はまさに板挟みの辛い状態であっただろう。モンブランは鹿児島の田の浦に滞在後、五代とともに指宿に長らく逗留していたという。あるいはモンブランを軟禁するためだったかもしれない。

大政奉還、王政復古の大号令と京都の政情が緊迫する中、新納と五代はモンブランを連れ開聞丸で兵庫に向かった。慶応3年12月28日(1868年1月22日)、五代らは薩摩藩の定宿である小豆屋に入る。年が明けて1月3日に京都南郊で鳥羽・伏見の戦いが始まると、五代はモンブランを英公使ラウダ(John Frederic Lowder)のもとに送り、新納は丹波路を京都に向かった。小豆屋が幕兵に狙われていると知り、五代も密かに開聞丸に潜伏する。そして翌4日、大阪・兵庫沖で幕府・薩摩両軍艦による砲撃戦が始まった。

Godai Tomoatsu, Niiro Hisanobu and Charles de Montblanc set sail for Hyogo at the end of 1867.  Just after they arrived, the battle of Awa broke out between Tokugawa Shogunate and Satsuma Clan in the waters off Hyogo and Osaka.

<参考文献>
犬塚孝明「パリ万国博覧会と薩摩外交 」『新薩摩学1 世界の中の「さつま」』2002年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
宮永孝「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」『法政大学 社会志林 47(2)』2000年

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