五代友厚 造幣局と桜(2)
Godai Tomoatsu, The Mint and the Cherry Trees (2)

川崎造幣局と桜
川崎造幣局と桜(『造幣局のあゆみ』より) The Mint and the Cherry Blossoms

造幣寮には、泉布観(せんぷかん)という応接所があった。工場と同じトーマス・ウォートルス(Thomas J. Waters)の設計で、煉瓦に漆喰を塗り、ベランダを巡らせた2階建て洋風建築であった。明治5年に明治天皇がここを行在所とした際、「銭(泉)が広がる様(布)を観る」という意味の「泉布観」と命名した。明治天皇は、その後も数回ここを訪れている。泉布観は、ほかにも内外の賓客を数多く迎えた。

明治12年(1879年)6月27日の新聞には、「造幣局にて催されし煙火(はなび)は・・・造幣局にて毎年度鋳造金銅貨の検査をせられしが・・・右調査済みの祝宴として催ふされ・・・泉布観には松方大蔵大輔・・・大阪商法会議所仝株式取引所東洋銀行三井銀行其他府内の諸官局各会社有名の人々にも皆招待に応せられ・・・」とある。6月25日に泉布観で祝宴が催され、造幣局と桜ノ宮で「千點の流星を眺むるが如く」盛大な花火が打ち上げられたらしい。松方正義は薩摩藩出身であり、商法会議所関係者も招待されたとあるから、おそらく五代友厚も列席していただろう。

造幣寮の建設と貨幣制度改革は、外圧により促された面もあり、造幣寮は必然的に西洋から多くの技術者を雇い入れ、建築や設備、労働形態にいたるまで西洋式を取り入れた。その中で、化学分析の久世喜弘(のぶひろ)、彫金の加納夏雄、機械技術の大野規周(のりちか)といった日本人技術者たちも、それぞれの持ち場で西洋人に劣らぬ活躍をみせた。五代友厚は官を辞した後、明治2年(1868年)に金銀分析所をはじめたが、これには久世喜弘・義之助父子や後の造幣権頭益田孝など造幣局関係者が多く関わっていた。

The Japan Mint at the time of founding adopted western technology in all aspects.  There were also notable Japanese experts at the Mint who played active roles in various disciplines.  Godai Tomoatsu and some of those experts had been doing a business together since 1868.

<参考文献>
『朝日新聞 大阪』明治12年6月27日 朝刊
大阪歴史博物館 編集『明治初年の息吹をいまに伝える建造物 重要文化財 泉布観』2013年
造幣局のあゆみ編集委員会「造幣局のあゆみ 改訂版」2010年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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