五代友厚 川口居留地(1)
Godai Tomoatsu, Kawaguchi Foreign Settlement (1)

大阪川口居留地慶応4年5月(1868年6月)に川口運上所が開設されると、五代友厚は外国官権判事として、開港とともに持ち上がった数々の問題の解決にあたった。

開港に関する諸規則を制定し、貿易上の不正取引や不法行為を取り締まり、居留地や雑居地で生じた諍いを調停するなど、運上所は多事多端であった。五代が各国領事に宛てた書翰には、商取引き上の契約不履行、規則を無視した火薬の持ち込み、指定区域外のおける家屋貸借、場所をわきまえない猟銃の発砲や暴力行為などに対しての抗議文が多数ある。

一方、伊藤博文(当時は俊輔)が掌っていた兵庫運上所は、大阪と比して取り締まりが甘かったため、結果的に大阪の厳しさが際立ち、外国人からは五代に対する怨嗟の声が上がったという。このことについて、伊藤博文らは五代に「一書拝呈いたし候」と忠告書を送っている。しかし、五代は日本の利益を損ない、日本を軽侮するような外国人の振舞いは断固として許さず、敢然たる態度を貫いた。

川口は、水深が浅く良港とは言い難かった上、商いも芳しくなく、また五代の厳格さも多少相まってか、外国船の入港は漸減し、明治4年にはわずか11隻、そして大阪・神戸間の鉄道が開通した翌年には1隻も来なかった。外国商人は大阪に見切りをつけ、続々と神戸に移っていったのである。川口は貿易港としてはふるわなかったが、代わりに宣教師が定住するようになり、富島天主堂が建てられるなど異国情緒あふれる町並みも徐々にできあがっていった。明治4年(1871年)に開業した造幣寮のお雇い外国人などもここに住んでいたという。

Accompanied by the opening of the Osaka Port, a lot of problems occurred around.  Godai Tomoatsu tried to solve these problems as an officer of Foreign Affairs Office at the Kawaguchi Unjosho (a delivery office at a harbor).

<参考文献>
大阪市港湾局『大阪港史第一巻』1959年
五代龍作編『五代友厚伝』1933年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
堀田暁生・西口忠編『大阪川口居留地の研究』1995年

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