五代友厚 大阪薩摩藩屋敷(2)
Godai Tomoatsu, Osaka Kurayashiki (2)

幕末の大阪薩摩藩屋敷
幕末の大阪薩摩藩屋敷 The premises of Satsuma Domain in Osaka

五代友厚が、藩際貿易に従事し西日本各地をまわっていた頃、商業の中心大阪には各藩の蔵屋敷が並んでいた。薩摩藩は、土佐堀沿いの上屋敷をはじめとして、その南西に中屋敷、さらに南の立売堀に下屋敷を持っていた。また、その周辺には薩摩領国物産を取り扱う薩摩問屋が数多く集まり、砂糖や蝋、煙草、鰹節などのほか琉球産品や琉球を経由する唐物などが運びこまれていたという。

五代が大阪在勤となったのは、慶応4年1月23日(1868年2月16日)に徴士参与職・外国事務局判事に任ぜられてからであるが、以前より御船奉行副役(おふねぶぎょうそえやく)、御納戸奉行(おなんどぶぎょう)格の御用人外国掛として、大阪には頻繁に訪れていたとみられる。明治2年7月4日(1869年8月11日)の退官後、五代はさっそく大阪に金銀分析所を設立したり、印刷・出版事業に関わるなど大阪を拠点に活躍し始めた。

しかし、下野後も身分は依然鹿児島藩士のままであり、わずかながらも藩から俸給が支給されていた。明治3年(1870年)に鹿児島藩は大阪にほど近い堺に紡績所を建設したが、五代はそのとき藩より堺紡績掛を命じられている。また、廃藩置県後、上屋敷の跡地に島津家の出資による国産物の委託販売店の支店が置かれ、五代は自ら申し出て国産会社大阪出張掛に任ぜられた。短期間ではあるが、黒砂糖を主とする鹿児島県の物産の大阪取引をこの間一手に引き受けていたことなる。五代は欧州視察中に紡績機械や砂糖製造機を購入しており、その関係もあったであろう。

Godai Tomoatsu frequently went to and returned from Kagoshima, Nagasaki and Osaka while he worked for the Shimazu Clan of Satsuma Domain. He was ordered to be a government officeholder in 1868 and moved to Osaka, but quit next year. He started his own business in Osaka.  At the same time, he also undertook businesses of Satsuma Domain as he was still a member of feudal retainers of Satsuma.

<参考文献>
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』 1974年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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