
鹿児島紡績所(The Kagoshima Spinning Mill)立ち上げのため、機械と同船したジョン・テトロー(John Tetlow)のほか、司長としてエドワード・ホーム(Edward Holme)、技師としてシリングフォールド(Shillingford)、サトクリフ(Sutcliffe)、ハリソン(Harison)ら5名が鹿児島に相次いで到着した。任務はそれぞれ、汽缶部1名、混打綿部1名、梳綿1名、粗紡1名、堅針1名、斜針1名と監督であった。
これら少なくとも7名のイギリス人のため、薩摩藩は鹿児島紡績所の一角に白いペンキ塗り二階建の立派な洋館を建設し、相当の給与を支払い、十分優遇につとめたが、技師たちは雇用契約期間の2〜3年を待たずに帰国したという。薩摩藩職工の習得が早かったこともあるが、イギリス人技師たちが幕末の動乱に不安を感じたことも一因のようである。
エドワード・ホームは、五代らの渡欧に随伴していたライル・ホーム(Ryle Holme)の伯父(兄ともいう)で、その関係もあって司長として選ばれたのかもしれない。彼は紡績所を離任してすぐ、グラバー商会(Glover & Co.)で働いていたフレデリック・リンガー(Frederick Ringer)とともにホーム・リンガー商会(Holme, Ringer & Co.)を長崎に設立した。
鹿児島紡績所は、結果として経営的には一貫して振るわなかったが、紡績所の祖となり、多くの雇用を創出した。また、明治時代になるとその経験をいかして大阪の堺に分工場を設け、大阪綿業の基礎をつくった。五代は堺紡績所の設立にも大いに関わっている。
Edward Holme, the leader and the other six engineers were dispatched to Japan by Platt Bros. & Co., in order to establish the Spinning Mill in Kagoshima. They set the machines in motion which Godai and Niiro ordered in Britain .
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<追記 2021年8月21日>
ブログをお読みいただいた方から、エドワード・ホームはライル・ホームの兄弟である旨ご教示いただきました。Edward Zohrab Holmeと言って、Zohrabは母親の旧姓とのこと。ライルは1900年まで日本にいましたが、エドワードは比較的早い時期にイギリスへ帰国し、1890年代にはボーンマスに家があって、姉とその息子も一時期そこに住んでいたそうです。